受験体験記

志門塾の子どもたちが書いてくれる体験記は長いものが多いですが、長さを感じさせません。

志門塾の受験体験記は変わっていると言われます。何の制限もなく子どもたちに自由に書いてもらっているためか長文になる場合が多いです。私たち講師が嬉しくなるのは行間に子どもたちの人間的成長が垣間見える時です。学力だけ優れている人間ではいけないと伝え続けてきたことが届いたと思えるからでしょう。志門塾の受験体験記は、そのまま私たち講師にとって自分への戒めや励みです。

周りの人を上回るには、彼ら以上に努力しなければならない。

岐阜高校 合格
山口 健心
RESPECT長良
岐阜清流中学校

私は、この1年が今までの人生で最も充実した年になりました。

私は、中学2年生までは勉強を最低限しかやらないタイプでした。しかし、同じように勉強をさぼっていた友達が頑張り始めたのを見て、「あの子には負けたくない」と思い、受験勉強のスイッチが入りました。それまではわからない問題はできるだけ避けていましたが、「入試に出るかも」という言葉を意識して、どれだけ難しい問題でもわかるまできちんと向き合い続けるようになりました。勉強への向き合い方を変えたことで、第1回、第2回岐阜模試では高い順位をとることができました。しかし、夏休み明けの第3回では、順位を大きく落としました。自分の中で、勉強の手を緩めたつもりはありませんでした。私はそこで、周りの人は自分以上に努力したこと、その人達を上回るには、彼ら以上に努力しなければいけないことに気付きました。それ以降、私は友達と競い合って勉強するようになりました。どちらの方が長く自習室にいるか、どちらの方が問題集が進んでいるか、どちらの方が高い点をとれたか、などです。その結果、第1回の順位と偏差値に戻すことはできませんでしたが、少しずつ順位を上げていくことができました。

RESPECT長良では、滝高校の受験がすすめられ、私は夏から滝に向けた勉強を始めました。当然、岐阜県入試よりもレベルの高い問題のため、理解に時間がかかることも多かったです。過去問を解いても、ボーダーを越えるかどうかのギリギリのラインでした。受験への不安を友達と話し合っていると、1人が「落ちても頑張ってきたことは無駄にならないんだから、大丈夫だよ」と言ってくれました。私はその言葉のおかげで気分がとても楽になり、同じ目標をもつ仲間がいることのありがたさを感じました。

先生や友達に恵まれたおかげで、私はとても充実した時間を過ごすことができました。この素晴らしい仲間達と、あと3年一緒にいられることに、喜びを感じています。

あれほど点数に貪欲になり、無心で机に向かったことはない。

岐阜高校 合格
奥田 拓也
本荘校
精華中学校

「間に合わない」受験期の自分の心に常にあった言葉だ。野球に打ち込んでいた私は、県の選抜に選ばれたため11月の半ばまで野球中心の生活を送っていた。そのため、不運にも大会と重なってしまったお盆特別合宿を辞退したこともあった。すでに受験勉強に取り組む仲間を見ると焦りが生まれた。自分だけがハンデを背負っているような気がした。

いざ受験に向けて勉強中心の生活になった時、周りの仲間がもう仕上がっているように見えた。自分なんかが周りに追いつく上にトップの高校に合格するのは夢だと思っていた。そんな私に追いうちをかけたのは岐阜模試の点数であった。

第5回から第6回の点数の伸びはほとんどなかった。この時点で私は母に弱音を吐いた。「もう岐阜高校に行くには時間が足りないし、目指し続けるのに疲れた。志望校を変えたい。」と。その時言われた言葉を鮮明に覚えている。「時間がないというのは言い訳で、楽になるために志望校を下げるのはそこを目指す人に失礼だ。まだ出願には時間がある。第7回に向けて底力を見せろ。」
それをきっかけに志望校のことを気にせず、とにかく前を向いて取り組むようになった。本荘校の舘山先生との話の中で「落ち込む時間はない。やるしかない。」と言われたことで心の中で自分を追い込む気持ちがなくなった。今考えてみれば、あれほど点数に貪欲に、無心で机に向かったことは信じられない。あの時の自分を誇らしく思う。

第7回の岐阜模試は岐阜高校を十分目指せる結果だった。いつもの自分であれば満足して終わると思うが、周りの影響はやはり大きい。もっと上がいる、当日何があるか分からないと油断しそうな自分を押し殺して走り続けた。

実は当日の受験の結果は思わしくなかった。ギリギリだと思われる点数で少し落ち込んだが、私の好きな言葉を思い出した。「人事を尽くして天命を待つ」やり切った自分が結果を変えるためにできることはない。堂々と3月14日を待とうと気持ちを変えた。

よく晴れた3月14日の朝9時、貼り出される合格発表の紙に自分の受検番号は刻まれていた。母に報告すると、泣いていた。自分より嬉しがっていた気がする。あの日輝いて見えた4桁の数字を忘れないだろう。

我武者羅に走ってきた自分が一歩離れて受験期を振り返ると多くの人、言葉に支えられていたことに気付く。社会で学習するように、人は社会的存在である。生まれた時点で誰かに支えられている。支えてくれた人への恩返しは言葉と行動で伝えたい。ありがとう。そして、高校生になっても支えてください。

苦しさを上回る努力の楽しさを感じ、自分史上最高に輝いていた。

岐阜北高校 合格
栗田 湊
長森校
長森中学校

中学1年生の頃から、私は母親に「あなたは人一倍努力しないと他の人に追いつけない。」と言われていた。今回の受験では人一倍努力することを一番に意識し、やり遂げることができた。

私は、数学が大の苦手だった。岐阜模試もずっと50点台で、順位も半分より下が当たり前だった。自分でも「数学を克服しないと岐阜北高校は受からない」と分かっていた。そんな中で来た夏休み。塾では仲間と朝から夜まで勉強。尾関先生からも「勝負の夏だ」という熱い話を聞いて仲間と共に熱意が高まっていた。この夏で数学も克服して合格へ近づこう、と私は決意していた。

「勝負の夏」の努力の結果を出す、夏休み明け最初の岐阜模試。私の数学の点数は前回とほぼ変わっていなかった。夏休みに気を抜いていたわけでもない。むしろ、今までの人生で一番勉強したと胸を張って言える、そんな夏を過ごした。それなのに、なんで。私の周りの人は夏の結果が出て喜んでいる。その姿を見て私は、努力をして思うような結果を出せない自分に腹が立った。

悔しい思いをした夏が過ぎて、秋になった。数学克服のチャンスは秋しかない。私は夏の悔しさを糧に、数学克服に全力を注いだ。その時から私の行動は大きく変化した。私の決定的な弱点はひらめきの無さ。そのひらめきは、多種多様なパターンの問題をたくさん解くことで得ることができる。私は克服のために、とにかく多くの問題を解くと決めた。しかし、他の人と同じ勉強時間で他の人より多く問題をこなすことは難しかった。そこで私は、10月頃から朝の集合時間の30分前には校舎に着き、自習を始めるようにした。また、土曜日は親に夜ご飯を届けてもらい夕方に帰らず残って自習するようにした。「人の2倍努力して、他の人に勝つ」それが私の目標だった。そうすることで勉強時間が急激に増え問題をこなすのに十分な時間を得ることができた。時々夕方に帰っていく友達や2回目でもバツばっかりの問題集を見て、むなしいような気持ちでいっぱいになり泣きたくもなった。けれど、私は努力をし続けた。人と同じ勉強時間では戦うことはできないと分かっていた。だから友達が帰って休憩している時も、努力した。1人の自習室で数学の問題に向き合い、がむしゃらに努力していたこの時期が今でも鮮明に記憶に残っているくらい、苦しさを上回る努力の楽しさを感じ、自分史上最高に輝いていた。

努力の楽しさを知った秋が過ぎて、冬になった。私の数学の点は大幅に上がった。初めて数学で70点台後半を取った時、努力は報われるんだ、と実感した。そこからも私は数学の伸びをモチベーションにして努力を続けた。第7回岐阜模試では第1回の時ぶりに長森校ランキングに入ることができた。冬から受験本番までは、本当に私の「最盛期」を取り戻すことができたと思っていた。

人一倍、二倍の努力を続けた結果、私は憧れの岐阜北高校に合格することができた。受験直前まで、朝早く来て自習すること、夕方や夜に残って勉強することを継続した。朝、夕方の誰もいない自習室で問題集と真剣に向き合ったあの時間は、忘れられない最高の経験だった。今共に本気で勉強した仲間とこの受験体験記を書けていることに幸せを感じている。長森校でしかできない経験をこの1年、たくさんできた。「岐阜北高校合格」という夢を私に持たせてくれ、合格へと導いてくれた尾関先生。本気で努力をするかっこいい背中を見せてくれ、私に本気で努力をする格好良さを教えてくれた仲間たち。本当にありがとう。最初で最後の、最高の受験だった。

行きたいと思った高校に、人生で一番高い点数で合格できた。

岐阜北高校 合格
杉山 美瑛
茜部校
岐南中学校

私にとって「岐阜北高校合格」という目標は受験当日まで絶対に無理なことだと思っていました。

私が岐阜北高校を目指すようになった最初のきっかけは、小学生の時、なんとなく父に勧められたからでした。その頃は「まだまだ遠い話だし、適当に言っておけばいい」というだけで自分の意志は全くありませんでした。

中学3年生になり、塾で二者懇談がありました。そこでも私は「父に勧められたから」という理由で第一志望校が岐阜北高校であることを伝えました。その時に先生には、「自分が本当に行きたいと思える高校じゃないと、受験とは戦っていけないし、後々後悔する」ということを言われました。自分の意志がどこにあるのかを考えてみるとなかなか「これだ」というものがなく、夏まではただただ宿題をやるだけ、授業を受けるだけ、というような日々が続きました。

その後自分の意志を発見できたのは、高校見学の時でした。公立高校2校、私立高校2校の見学に行き、「岐阜北高校に行きたい」と心の底から思いました。部活動も引退して、自分の時間が全て勉強にあてられるようになってからは塾で過ごす時間が格段に増えました。

自習室で眠気に負けて寝てしまったり、真面目に勉強をやってこなかったせいで、分からないところが多いと自信をなくしてしまったりすることが多々ありました。何回岐阜模試を受けても、点数は全く伸びず、先生に涙を流して相談することもありました。

自分で心を入れ替えて、分からないところは徹底的に質問して、不安要素をつぶしていきました。第6回の岐阜模試で点数が伸び、第7回岐阜模試、プレテストでようやく400点台になったという状況で入試を迎えました。岐阜模試やプレテストでは点数は全く足りておらず、自信はちっともありませんでした。

3月14日の午前9時。スマートフォンの画面には「合格」という文字が映り、人生で一番高い点数で合格できたということはこれからも忘れないと思います。

私はこれまでの人生でやれと言われたことだけやって自分の意志というものをあまり考えませんでした。けれど受験を通して、自分の意志をはっきりと持ってやり切れば、よい結果になるということを身をもって感じました。これからの人生でも「自分の意志」を大切にしていきます。

誰も無理だと言いませんでした。諦めていた自分が恥ずかしかった。

岐阜高校 合格
大西 和
茜部校
厚見中学校

私にとってこの1年間は忘れられない本当に貴重な1年間になりました。

私はもともと岐阜高校を志望していました。その思いが強くなるきっかけとなったのは高校見学です。高校見学で初めて岐阜高校の校舎を見て、なんて綺麗なんだと感じ、本格的に勉強を始めました。それまで、ほとんど行かなかった自習室に行く機会を増やしました。また、私は夏休みに初めて質問をしました。もともと人見知りというのもあり、質問することが苦手でしたが、徐々に質問をする回数を増やしていきました。そうできた要因の1つに仲間の存在があります。話すことはほとんど無かったけど、質問対応予約表に書かれた、私を除いたたくさんの名前、朝から夜遅くまで自習室にいる仲間の存在に気付いたのです。それらは、競争心を生み、よい刺激となりました。

岐阜模試での点数には波があり、全然安定しませんでした。特に数学は、60点台や70点台が多く、できる問題とできない問題とで、差が大きかったです。でも分野別問題集で苦手な所を練習したり、質問をするなどして、80点台を取ることができるようになりました。しかし一度も点数は450点を越えませんでした。どんどん入試までの日数は短くなり、焦り始めました。努力はしてるのに、点数が上がらない。そんな日々が本当に辛かったです。出願変更期間になりました。志望校を下げようか本当に悩みました。内心受かるわけないと諦めていた部分もあります。でも学校の先生も塾の先生も家族もみんなが私のことを信じてくれていました。誰も無理だとは言いませんでした。諦めていた自分が恥ずかしくなり、出願変更はしませんでした。そして迎えたプレテスト。私は国語で60点台を取りました。目標点数に到底届くはずがなく、涙が止まりませんでした。山代先生と懇談した時、たくさん励ましてくれました。その時に言ってくださったアドバイスや励ましは本当に嬉しかったです。それからは、毎日「十分国語」を解き続けました。そして自分を信じて合格することができました。

私はたくさんの人に支えられてここまで成長できたと思います。進路に悩んでいる時、相談に乗ってくれた学校の先生。毎日送迎をして、たくさん相談に乗ってくれたお母さん。勇気付けてくれた友達。そして何より茜部校の存在です。自習室に行くと誰かは必ずいて勉強している仲間、質問を分かるまで教えて、励ましてくれた先生方。本当にありがとうございました。この受験で得た成長を糧にこれからも頑張っていきます。

悔しくて泣きながらテストの直しをした。初めてのことだった。

岐阜高校 合格
國井 奏佑
七郷校
岐阜西中学校

自分は今、岐阜高生になれたことを心から誇りに思っている。でも、ここにたどり着くまでは本当に長い道のりだった。

自分の受験について話すなら、やはりここから話すべきだろう。自分が七郷校に入ったのは中学1年生の春期講習。「県内1位の実績を持つ塾だったから」という何とも単純な理由で入った自分は早速手痛い目を見ることになる。とにかく授業内容とまわりのレベルが高い。宿題の量が多い。英語がマジで分からない。先生も厳しい。そして、小学校の頃の自分が通用しない。特にひどかったのが単元ごとにある「確認テスト」。どの教科もことごとく追試となり、中1の1回目の単語テストなんか、4~5回ぐらい追試になった。そんなわけだから、入った頃は心の底からマジでやめたいと思った。それでもめげずにがんばったおかげで、少しずつ成績も良くなり、確認テストも追試になることがなくなった。

大きな転換期が訪れるのが、中1の夏の終わり。ある日の塾の帰り道で親からこんな話を聞かされた。その内容というのが、別の志門塾に通っていた自分の友人が、夏にもらえる「宝くじ」が欲しくて、自習室に通い続けたという話だった。そして、この話の最後に、「あなたも自習室を使って勉強したらどうか。」と言われた。この頃の自分はというと、成績が良くなっていたものの、統一テストの点数があいかわらずひどく、自習室も、授業が始まる前に少し利用しているぐらいだった。「ああ、これはやれってことだろ」と勝手に思い、腹を立てながらも、自習室を使ってもっと勉強することを親と約束した。その日から、自分の生活は少しずつ変わっていった。当時、他にも習い事をしていた自分は終わった後に自習室を利用し、土曜日も午前の3時間は自習室を利用するよう心がけた。そんなことを続けていたら、自習室の利用時間は同じ学年の内で4番目となった。これがものすごくうれしかったから、中2はもっとがんばった。習い事をやめ、自習室の利用時間を増やし、定期テストがあろうがなかろうが、なるべく毎日塾に来るようにした。そして、塾に入ってから2年後、「あの時」とは確かに変わったことが3つある。1つ目は、同じ学年の間で「努力」の面で自分の右に出るものがいなくなったこと。2つ目は、先生たちから信頼されるようになったこと。3つ目は、岐阜高校を目指せる位置まで来たこと。

そしてついに来た3年生。「受験生」とまわりから呼ばれるようになった自分は、さらに努力した。前期中間テストが行われる6月以前から、朝から夜まで自習室に通うようにし、夏はこれを毎日続けた。そのおかげで、岐阜模試のほうも少しずつ点数が上がり、第4回の岐阜模試では総合50番以内に入ることができ、先生、そして親からもほめられた。素直にうれしかった。これなら岐阜高校に行けるなとも思った。

でも、「受験」はそれほど甘くはなかった。早くもそれは11月のガイダンス、分厚い分野別問題集のテキストを前に途方に暮れる自分。あまり深く考えないようにしていた入試が、刻一刻と近づいていることをいやというほど感じた。そして授業の方も少しずつ演習に変わっていった。演習の結果に喜び、落ちこみ、時にはプリントの隅に書いてあった長谷川先生の一言コメントがちょっとした励みになったりもした。メンタルはこれらを受けて、波のように上下をくり返した。そんな中での、第5回岐阜模試。結果は、ギリ100位以内。正直、ちょっとやばいと思った。何と言っても、次に控えているのが1月にある第6回岐阜模試。ここで点がとれないと、志望校を変える必要があることは散々言われてきた。ここに来て志望校は絶対変えたくない。その一心で、上下するメンタルと戦いながら勉強を続けた。

そして、1月の初め頃、自分は大形先生に呼び出された。その内容は、直前講習をどこで受けるかについてだったが、それに加え「頑張りすぎ」と言われた。驚いた。自分は去年の先輩の姿を見て、今の状態が当たり前だと思っていた。それと同時に、自分のことを気遣ってくれたのがうれしくて泣いた。そして迎えた第6回岐阜模試。ここで結果が出なかったら志望校変更というプレッシャーをかかえながら挑んだ。そして、その日のうちに自己採点をした。結果は目標の450点を下回っていた。泣いた。勉強で泣いたことがなかった自分が初めて泣いた。悔しくて泣きながらそのまま直しをした。でも、実際の点数はもっとひどかった。本当に終わったなと思った。でも、こんな点数でも大形先生は見捨てることも志望校を変えさせることもしなかった。それはうれしかった。でも、第7回の岐阜模試で440以上を取るようにと言われた。今の自分にとってこの点数は大きな壁だった。そして始まった直前講習と実践演習。最初はなかなか点が取れなかったが、次第に高得点がとれるようになった。迎えた第7回岐阜模試。自己採点をした自分は思わず目を疑った。何と合計点数が440どころか450をはるかに超えていたのである。実践演習が始まる前、大形先生が、「この30日で大きく変わる」と話していたことを思い出したが、まさかここまでとは。その後の懇談でも、大形先生は自分のことをほめ、これなら安心して目指せると言ってくれた。ここまで努力してきたことは無駄ではなかったと思った。

入試当日。「自分は大丈夫」とは思っていたけど、やっぱり緊張した。でも、国語の作文を書き終えたら一気に緊張がほぐれ、その後はリラックスして問題を解くことができた。

そして、今日3月14日。緊張しながら見た掲示板で見つけたのは自分の受検番号。良かった。本当に良かった。自分が行ってきたことが間違いではなく、本当に報われたと心から思うことができた瞬間だった。

長くなったけど、最後に後輩へ。自分は正直なところ岐阜高校に行くための「学力」はなかった。でも、それ全てを「努力」が補ってくれた。だから、心が折れそうな時も「努力」が心の支えとなり、最後は自信を持って岐阜高校を目指すことができた。本当に行きたい高校があるなら、まずはコツコツ努力すること。そうすればいつか結果はついて来るし、何よりまわりから応援される人になります。受験というのは険しい道です。でも、「コツコツ努力してきた人」は最後に笑って受験を終えます。これは理想論ではなく、自分が経験したから言えることです。みんなが行きたい高校に行けることを、少し離れた岐阜高校から応援しています。

これを仲間と言うんだろうなと思った。

岐阜北高校 合格
小澤 結衣
粟野校
三輪中学校

中学3年の1年間は今までで一番濃い1年となった。

第1回の岐阜模試の数学で40点台を取った時は、本当に言葉を失った。今までに見たことない数字が返ってきて、本当に数学ができるようになるだろうか、ととても不安だった。

中1、中2は何となく勉強をしていた。「400点を取る」とそれだけで志望校をまともに考えたことはなかった。中2の途中、とりあえず書いていた志望校と内申を比べられ、「この内申、もったいないよ。」と言われ、志望校を岐阜北高校に変え、本気で高校受験と向き合うこととなった。

中3で塾を変えることになり、志門に体験に来て、懇談をした時、「大学はどうしたいの?」と聞かれた。大学の話をされたのは初めてだった。私と母は高校だけじゃなくて、その先も考えて話を進めてくれるのはいいな、と感じ志門塾に入ることになった。そこで取った「数学40点」。同じ中学の人や周りの人も頭のいい人ばっかりで、「場違いだな。」とすごく感じた。

そこから始まった1年間、今まで1日で最高でも5時間しか勉強できなかった私が1日8時間以上勉強したり、23時まで勉強したり、今までの私じゃ考えられないほど勉強した。3年生になって振り返ると1・2年は全然勉強していなかったな、もっと復習をきちんとしていれば⋯⋯と何度も思った。模試の点数が中々上がらなかったり、偏差値が下がったりして、もう無理かもしれないと思うこともあった。でも、そのたびに自分の点数を上げるには、自分を岐阜北高生にするためには、自分がどうにかしなければならない。誰もどうすることもできない、と思い、辛い、苦しい気持ちを自分の中で中和しながら前を向いて自分を信じ続けた。プレテストで数学の53点を見た時は「マジか」と思ったが、見直して間違いの原因が分かった時には、「大丈夫、気をつければできる。」とそこまで焦らず、あと2日でできることに向き合えた。入試では初めて90点を取った。自分でも驚きだった。苦手なやりたくないことから逃げがちだったが、真っすぐ向き合い、自分を信じてやってきたことが点数という結果として表れてすごく嬉しかった。不安になる時も沢山あったけれど、自分を信じられてよかった。

夏期講習が始まる前、先生に「受験は団体戦だから、お弁当をみんなで食べてほしい。」と言われた。「団体戦」の意味はよく分からなかったが、学校が違う、話したこともない子や、学校は同じでも話すことが少なかった子と一緒にお弁当を食べて仲良くなった。入試前日、同じ志望校の仲の良い子で集まって「頑張ろうね」と言い合った。入試の翌日は「お疲れ、うちら頑張ったよね。」と笑顔で話した。その時、先生が言っていたことってこのことだな、と思った。志望校が同じ子はライバルでもあるし、自分より厳しい志望校の子もいたけど、みんなで一緒に沢山やってきたから大丈夫だと、みんな同じ気持ちで闘ったんだろうな、と思った。1人じゃなくてみんながいたから頑張れた。これを仲間と言うんだろうなと思った。

この1年、辛い思いや苦しい思いをしたし、家族に気を使わせたり、しんどい思いをさせたりもしたけれど、自分を信じて歩み続けることの大切さや、どんなことも1人じゃなくて、誰かに支えられて、支え合ってやっていくんだということを実感した。志望校に合格する、という1つの目標に向かって一生懸命向き合ったこの経験を大切にしたい。本当に1年やってきてよかったと心から思う。「高校合格はゴールじゃなくて、スタート。」何度も先生から言われた言葉を胸に、理想の自分を探し、近づけるよう歩み続ける。

受験は「団体戦」とよく言うけれど、本当にその通りだと思った。

岐阜北高校 合格
田原 かん菜
北方校
真正中学校

WEBで「合格」の文字を見た瞬間、私は嬉しさと安堵の気持ちで涙が止まらなかった。母も「おめでとう。本当に良かったね。」と泣きながら一緒に喜んでくれた。今まで辛かったけど、頑張って良かったと心から思った。

私が志門塾に入ったのは小学校4年生の時だった。私が塾に入ろうと思ったきっかけは、幼なじみで中学受験をする子がいたことだった。その子が塾に入り、一生懸命勉強する姿に憧れを抱き、入塾を決意した。しかし、当時の私は、塾に入りさえすれば勝手に点数が上がると思っていた。そのため、特に勉強に対して本気になることはなかった。当然、統一テストの点数や順位が上がることはなかったが、それでも最低限の勉強量しかこなしていなかった。

中学校に上がり、最初の定期テスト。思ったより点数は取れた。そこで初めて、点数を取れることの嬉しさを感じた。絶対に点数を維持したいと思っていた私は、塾から与えられたことを着実にこなし、夏休みもたくさん自習室で勉強できた。そのおかげで点数は順調に伸びていき、勉強の楽しさを味わえた。しかし、2年生になると、統一テストで同じ校舎の子に点数を抜かされることが多くなった。不安な気持ちが大きくなっていくのを自分でも感じていた。しかし、どこか心の底で、「まだ1年もあるし大丈夫。」と思っていた。「1年も」ではない。1年しかなかったのだ。

3年生になり、第1回岐阜模試で順位は良かったものの、思い通りの点数は取れなかった。それにも関わらず、テストが終わった後に勉強をすることはなかった。そのせいか、第2回の岐阜模試で一気に点数が落ちた。今まで取ったことのない点数を取ってしまい、愕然とした。このままではまずい、悔しいと本気で思った。夏休みはほぼ毎日塾に通った。10時間以上勉強するのが日常になっていた。長時間机に向かい続けるのが辛くなることもあったが、それでも第2回の岐阜模試の悔しさを思い出し、必死に勉強した。そんな中、江口先生が「お盆特別合宿に参加してみない?」と言ってくださった。これが、今後の私の受験期を大きく変えることになった。今まで、順位表で名前でしか知り得なかった子たちと会い、とても不思議な気持ちになった。それと同時に、特別合宿の子のレベルの高さを知り、圧倒されたし、すごく刺激になった。今までで一番勉強した夏になったし、自分自身が成長できた1ヶ月になった。第3回の岐阜模試で点数を大幅に上げられた時は本当に嬉しかった。

しかし、ここからが本当にキツかった。点数が伸び悩み、勉強しても勉強しても思うようにいかないことが続いたのだ。それでも、まわりの子の点数は上がっていくばかり。その頃から、元々緊張しやすいタイプの私にとって、テストが大きなストレスになっていた。テストの度に過度な緊張に襲われ、結果を聞くことも辛かった。負けず嫌いな私にとって、順位表で自分の知っている名前が、私の名前より上にあることがすごく悔しかった。そこで、私は勉強の仕方を見直した。先生が、「質を高めることが大切。」だとおっしゃっていたことを思い出し、解き直しの精度を以前より高めた。すると、少しずつではあるものの、ケアレスミスの数が減っていった。私は再び、勉強の楽しさを感じることができた。

2月に入り、直前期になると、毎日塾に通い詰めの日々になった。今思うと、家にいる時間より、塾で過ごす時間の方が長かったかもしれない。しかし、私がそれでも頑張れたのは、同じように頑張る北方校の仲間がいたからだった。何時間も椅子に座り続けて疲れてきても、顔を上げて、私よりも早く塾に来て一生懸命努力している仲間の姿を見ると、自然に「もっと頑張ろう!」という気持ちになることができた。私は、こうやって仲間の姿を見て、自分をさらに高められるところが集団塾の強みだと思う。受験は「個人戦」ではなく「団体戦」とよく言うけれど、本当にその通りだと思った。受験前の1ヶ月は、今までの人生で一番勉強した1ヶ月になった。

受験当日、高校に行く前に先生が作ってくださった動画を見て、とても安心したのを覚えている。ガチガチに緊張していたが、それでも「私ならできる、大丈夫。」と思うことができた。それは、間違いなく受験会場の教室にいる全員の中で、一番勉強した自信があったからだと思う。

最後に。この1年は私にとってかけがえのない1年でした。勉強の楽しさや喜びを教えてくれた1年でした。点数が下がって落ちこんでいた私を励まし、常に前向きな言葉をかけてくださった江口先生。いつも笑顔で、親身になって寄りそってくださった水木先生。6年間でここまで私が成長できたのは、先生たちのおかげです。そして、毎日お弁当に手紙を書いて入れてくれたお母さん。仕事で忙しいのに、毎日送迎をしてくれたお父さん。北方校で共に高め合い、頑張り続けた21代目の仲間。私が志望校に合格できたのは、多くの人の支えがあったからです。本当にありがとう。この経験は、私の宝物です。

懇談では、意地でも志望校は下げませんと言いきることができた。

加納高校 合格
黒田 莉彩
羽島校
竹鼻中学校

中3の4月、加納高校を志望校に決めたとき、私の直近の模試の点数は210点。目標点数の2分の1という笑えないような点数だったが、目標は高くしておけばよいという安易な考えで、校風が気に入った加納高校にした。しかし。そのときの私はまだ努力も何もしていない身で、加納を志望校にしたものの、最終的に志望校を下げて別の高校を受けるだろうと最初から諦めていた。今考えたら、この情熱と自信のなさにとても腹が立つのだが、1年前の私はそれぐらい不甲斐ない受検生だった。志望校を塾の先生に伝えたとき、やめるように言われなかったことにとても驚いた。私自身が不可能だと思い込んでいたからだ。むしろ、苦手なところを見つけて、勉強のアドバイスをくれた。最初からだめだと諦めている私より、受検生でない先生のほうが気持ちが前向きでやる気があるのに対して、自分に情けなさを感じたし、私は加納高校を目指せるのだと気付かせてくれた。そのとき、初めて加納を受けたいと心から思えた。しかし、やっぱりサボって中途半端になってしまうことが多く、たくさん叱られたし、点数もなかなか安定しなかった。そんな中で、私は先生の期待に応えたいと思うようになった。出された課題ですら完璧にこなしていなかったため、1・2年生のとき、いや、中3の夏までは、1日中机に向かい、ペンを握りしめている先輩達の姿を見て、この人達はこれまで一体どのような訓練を受けてきたのだろうと疑問を抱いていたのだが、私もいつのまにかそれができるようになっていた。それからはほぼ毎日塾に行き、思い描いていた受検生像に近づいていった。

しかし、1月にあった模試の点数は330点だった。このときの懇談で、次の模試で400近くとれなかったら志望校を下げるということを話した。12月の模試から20点しか上がらなかったのに、同じ1ヶ月で70点上げられるのかという不安に押しつぶされそうになったが、志望校を下げたくないという強い思いとプライドで踏ん張った結果、390点をとることができた。学校の先生は最後まで志望校を下げることを勧めてくれたが、塾の先生が「いけるよ」と背中を押してくれたから、学校の懇談では意地でも下げませんと言いきることができた。

そして迎えた受検当日、私が加納高校を受けるという事実が自分でも信じられなくて、夢を見ているのではないかと何回も思った。それと同時に、その事実は、こんな私に対してもずっと寄りそってくれた「志門塾」の先生がいてくれたからだと、合否関係なく、感謝の気持ちでいっぱいだった。そして今までやってきたことを自信に変えて挑んだ結果、加納高校に合格できた。点数も最初の模試の倍以上だった。

中学生になって、注意してくれる大人が少なくなってきたからこそ、中3のときは、いつも身近にいてくれた塾の先生が私の中で大きな存在となった。また、不安を感じることはあっても、そんな先生に会えるのがうれしくて、毎日塾に行くことができた。「諦めないことが大切」とか、ただの綺麗事だと思っていたけど、今はこの言葉に価値や重みを感じられるようになった。これも全部先生のおかげだ。

志門塾で、こんなに尊敬できる大人と出会うことができて光栄に思う。そして、この高校受検までの過程で培うことができた勉強に対する意欲や考え方を無駄にしないよう、高校でも日々精進していこうと思う。

周りのレベルの高さから、劣等感を抱くとともに競争心に火が点いた。

加納高校 合格
後藤 有槻
那加校
桜丘中学校

僕はこの春、念願だった加納高校の正門をくぐった。そして校舎の近くで立派に咲き誇る梅の花を見上げた。

冬期講習。僕は突飛ながらも志門塾に入ることにした。まずそこで圧倒されたのは周りの子のレベルだった。定期テストで百点満点を取る人、模試の総合でトップ30に入った人。その輪に入り、上には上がいるという事実を肌身を以て感じた。その事実に自分への劣等感を抱くとともに僕の競争心に火が点いた。入試まで残り3か月。今こそ一番の冬が来た。何としてもこの志門塾で苦境に打ち勝たなければ。最後の1秒、その瞬間まで完走せねば。周りとの差により焦り、分からない問題による壁に何度もぶつかってきた。時間にも追われ、1人で押し潰されそうな毎日だった。それでも最後まで挫けなかったのは塾の先生の厳しくも温かい言葉の数々、那加校での仲間の存在が大きかった。自分は何か目標の達成直前まで進むと気が緩んで躓く癖がある。言い換えれば「完走できない」ということだ。しかし、塾の先生が毎日、親身で熱心に質問や相談に乗ってくださったり、仲間で励まし合ったりできる那加校の雰囲気に絆を感じる。その絆があと一歩のところで挫けてしまう僕の背中を押してくれた。

1月半ばの第6回岐阜模試。ここでついに軌道に乗った。久々に400点の壁を越え内申を合計するとA判定。ようやくゴールテープが見えてきた。しかし、ここでいつもの「癖」が出た。ラストの模試。目にした文字はC判定だった。言葉にならなかった。もう落ちる。ただ呆然とした。志望校を下げようかと思った。きっと懇談で下げるよう勧告されるだろうと思った。しかし、校舎長は決してそんなことを口に出さなかった。「残りのあと数週間で結果はいくらでも変えられる。努力次第で。今、変わってしまったように良い意味でも悪い意味でも。」それからの日々、あとは気力でただ必死に追い上げた。徐々に点が着実に上がり、再びゴールテープが見えてきた。しかし、今まで以上に不安や緊張がのしかかってきた。

受験前夜。仲間との最後の励まし。塾の先生方の熱いエール。今までの重荷がほどけ、すっと心が軽くなる感じがした。その夜、一番驚いたのは校舎長の姿だった。ここまで毎日フル稼働にも関わらず一時たりとも苦の表情を見せず熱い魂で自分をみんなを導いてきた校舎長は受験直前で体調を崩してしまった。解散後、扉の外に出るとそこには校舎長が駆けつけていた。いつもの元気で満ち溢れる姿とは異なり、その時に限ってマスクを着け体調に抗って1人1人を見送る姿。言葉だけでなくその最後の最後まで貫き通した姿にとてつもない勇気をもらった。

チャイムが響く。サッと一斉に紙をめくる音。カリカリと音を立てるシャーペン。試験中、常に心で唱え続けた。「負けてたまるか。全身全霊で自分と向き合え。今ある自分のすべてを出し切れ…。」ともにがんばってきた仲間のメッセージが次々と溢れる。決して1人じゃない。自分たちならいける。自信が湧き上がってくる。秒針が指す最後の1秒まで…走り切る。

「合格」その2文字。ゴールテープの先にあった景色。立派に咲き誇る梅の花。最後まで完走したからこそ眺めることができた景色。僕はようやく自分が出せる花を堂々と咲かせられた。

よく受験は個人戦だとか団体戦だとかという人がいる。僕からすれば、団体戦という名の個人戦という表現がしっくりくる。受験は最終的には、必ず個人で戦わなければならない時が来る。しかし、そこまでの長い長い道のりも、1人だったかというと決してそうではない。「ありがとう。」のたった5文字に集約できないほど感謝でいっぱいだ。

自分らしい花を咲かすためには、自分と関わるすべての人たちの存在を力に変える吸収力が必要不可欠だ。ここでいう吸収力を高めるには、「感謝の心」が一番大切だと思う。感謝を忘れず自分の出せるありったけの力でゴールテープを切る。その時、初めて自分らしい花を咲かせられる。僕が思う受験。「団体戦という名の個人戦」とはこういうことだ。このことに気付けて志門塾那加校に入って本当に良かったと思う。

(一部省略)

精神的に、最初の自分と比べものにならないくらい強くなった。

岐阜高校 合格
山川 夏実
トップレベル選抜・大垣
大垣東中学校

私にとって、中学校生活の中で「塾」の存在はとても大きかった。1・2年生のころは学校の定期テストが廃止され、学校のテストのための勉強がおろそかになってしまいそうだった。けれど、この選抜コースに入ったことで、塾の仲間と切磋琢磨し勉強に向かうことができた。

私は志望校を決めるのにたくさんの時間がかかった。私が塾に入る前は大垣北高校に入れたらいいな、くらいの軽い気持ちだった。しかしこの塾の仲間と過ごす中で、精一杯やり切りたい!!と本気で思うようになった。高校見学に行った時に一番岐阜高校に魅力を感じ、とても感動した。それをきっかけに岐阜高校を目指したいと考えていたが、周りの人たちにどんどん追いこされていく焦りや、高校が自分に合うのかという不安で心の中がもやもやしていた。そこで寺部先生と何度も話し、自分がなぜ岐阜高校に魅力を感じたのか考え、岐阜高校に行きたい!!という思いを高め、頑張ることができた。

3年生の中で一番苦しかったのは滝高校入試だった。3年生の秋・冬の間だけの勉強で大丈夫なのだろうか、と不安が大きかった。最初のころの数学は、はてなだらけの授業で、問題はほとんどバツだった。いつの間にかカウントダウンが始まり、不安と焦りで心がいっぱいだった。冬から5教科の対策も本格的に始まり、過去問を解いても周りよりも低く、平均にも届かないことも多々あった。周りからとり残されている気持ちになり、塾が終わったら泣きながら帰る日々が続いた。精神的にも苦しくなり、滝高校入試の2日前には、授業後塾で涙がこらえられなくなってしまった。そこで寺部先生とじっくり話し、「入試の時は自分の全てを出し切れば良い。自分に勝て。その上で最後に周りと比べるだけだ。」と言葉をもらった。自分の中で心がすっきりした。自分の出せるものを全部出せばいいんだ。最後までできることをやり切ろう!!と残りの2日間も前向きに頑張れた。当日もベストな状態で臨めた。

受験を乗りこえたことで精神的に、最初の自分と比べものにならないくらい強くなった。これからも、自分に負けずに、前向きに一歩一歩進んでいきたい。

自分でも驚いた。まだまだ勉強したい。そう思うようになっていた。

岐阜高校 合格
古澤 颯茉
担任制
不破中学校

「受験」それは自分を知ることができるもの。「受験」それは自分がたくさんの人々に支えられていることを実感できるもの。「受験」それはたくさんの人々に最高の恩返しができるもの。今、僕は「受験っていいな」と心から思っている。

中学2年生まで僕は大垣北高校を第一志望としていた。その頃の僕は、受験は苦しいもので合否が全てであると思っていた。中学3年生の夏、興味本位で岐阜高校の見学へ行った。大垣北高校も、とても素晴らしい高校だったが、それに勝るような何かを感じ、憧れを持つようになり第一志望を岐阜高校にすることを決心した。それからの日々、岐阜模試で良い順位を取ろうと、部活動との両立をしながら、必死に勉強した。しかし、全く良い順位を取ることができないし、どうしても勉強をサボってしまう自分がいることを知り、何度も自分のことが嫌になった。自分には才能がないと思っていた。その数ヶ月後、僕にとって一生忘れない言葉を稲垣先生が言ってくれた。「颯茉くんは努力の天才だ」と。この言葉はそれからの僕の心の支えとなった。それから、僕は、もう一度やってみようと思い、稲垣先生の言われたことを徹底し、自分に合った勉強方法を家族とともに追求し続けた。僕はこのとき、たくさんの人から支えられていることを実感し、幸せだった。夢中で勉強し続けて気付けば受験まで残り2週間を切った頃、すでに僕は勉強を、受験を楽しんでいた。1年前とは違う心情に、自分でも驚いた。まだまだ勉強したい。そう思うようになっていた。稲垣先生も毎日、塾が終わった後に一緒に駐車場まで来て、応援してくれた。

迎えた受験当日、やっぱり緊張した。でも、やり切れた。それはたくさんの人が支えてくれたから。夜の自己採点では1問1問丸をつけるたびに「良かった、良かった」と言いながら、涙を流した。人生で初めて1問の重みを感じ、泣きながら採点した。結果は何とか目標としていた450点以上を取ることができて、安心した。家族も泣きながら喜んでくれた。

そして、合格発表当日、本当に怖くて逃げ出したくなるほどだった。結果は無事合格だった。叫び出すほど嬉しかった。岐阜高校を諦めなくてよかった。最後まで自分を信じてよかった。高校受験が終わってしまうのは、どこか寂しさがあるけれど、次は大学受験に向けて走り抜きたいと思う。

最後に、稲垣先生を始めとする志門塾講師の方々、信じて見守ってくれた家族、僕を支えてくれた全ての人々、そして高校受験へ、ありがとう!!

私はありのままの自分を受け入れ、成長できました。

大垣北高校 合格
水谷 咲絢
担任制
大垣北中学校

私は高校受験を通して、自分を改めて見つめ直すことができました。大垣北高に合格することができたのは、自分としっかり向き合うことができたからだと思います。

私が北高を目指そうと思い始めたのは中学1年生の時です。それと同時に志門塾担任制に入塾し、勉強を始めました。吹奏楽部の活動で忙しく、大変でしたが、その忙しさによって学校生活や勉強がより充実したものになったと思っています。

3年生になって岐阜模試を受けるようになった頃、私は2つの課題を見つけました。1つ目は、数学が苦手なことです。第2回岐阜模試の数学の点数はまさかの49点。あまりにも低い点数にとても驚いたことを覚えています。その後も数学の点数はなかなか伸びず、第6回岐阜模試では泣きながら数学の問題を解く程でした。そんな時、支えになったのは担任制の仲間や先生でした。どれだけ学校や勉強が嫌になっても、塾だけは楽しんで行くことができました。大好きな仲間や先生に会えるからです。もし私が担任制にいなかったら、勉強することをやめていたかもしれません。それぐらい、担任制の仲間や先生は、私にとって大きな存在でした。

2つ目の課題は、極度の心配性です。定期テストや岐阜模試で失敗しないか、いつも不安でした。さらに、私の両親も心配性なので、進路を決定する時はとても苦労しました。心の中では北高に行きたいと思っているけれど、合格できるか親が心配するかもしれない。こういった心配性の負の連鎖が続いていました。その連鎖を止めたのは、稲垣先生が考えてくださった「安心大作戦」でした。「安心大作戦」というのは、勉強のことを深く考えず、体調などの勉強以外のことを考えるようにするというものです。私はこの作戦のおかげで、勉強だけに振り回されることなく、自信を持って受験に挑むことができました。先生、本当にありがとう。

私は、自分を見つめ直すことで、自分を大きく変えることができました。もちろん今も数学は大っ嫌いですし、心配性です。しかし、そんな自分を受け入れることはできます。ありのままの自分を受け入れることはとても大変で苦しいことだったけれど、お父さんやお母さんをはじめとするたくさんの人の支えがあったから、私は自分を受け入れ、成長できました。ありがとう。

これからも、私は志門塾担任制のことを忘れずに、成長していきます。

入試当日、自分の3年間の努力がどこまで出せるかが楽しみでした。

大垣北高校 合格
井上 陽菜乃
GRAN
大垣南中学校

こんにちは。私は、この3年間、特に中学3年生の受験生としての期間を、誰よりも最高な時間にできた自信があります。

私は1年生の初めからGRANに入りました。1・2年生の時は、まったく入試のことは気にせずに、ただただ目の前の定期テストで自分の納得のいく点数をとることと、大垣南中1位をとることだけを考えて、とにかくめちゃめちゃ勉強しました。友達に負けたくない負けず嫌いな性格がすごく出ていたんだと思います。中学の定期テストは、本当に才能とかじゃなくて、どれだけ自分を追いこんで本気になれるかだと思います。1・2年生のうちはピンとこない人がほとんどだと思うけど、定期テストを毎回ちゃんとやっておくことが、本当に3年生になった時の助けになります。だから、絶対にサボらないでください。一回勉強から逃げたら、もどってくるのは難しいと思います。つらくても逃げないでください。一回一回のテストを大切に。

そして3年生になって、フロンティアードの授業が始まりました。お兄ちゃんからB教室にいたらかっこよく見えると言われ、私はB教室にいくのが憧れでした。それまで、定期テストでも統一テストでも、それなりにいい点をとれていたこともあって甘く見ていました。第1回岐阜模試後の初めてのフロンティアードで、J教室の1列目でした。同じ校舎の子がB教室に何人かいるのを見て悔しくなりました。それが、私の受験生のスタートラインです。

7月に大好きな部活(バスケ)が終わると、もうそこからは勉強をするしかなくなりました。夏休みは、朝昼晩で塾だったけど、周りの子もみんなやっているからというのもあって、そんなにつらくなかったし、その時期から塾が好きになり始めました。そんな感じで私は、第1回から第5回まで、偏差値を1回も下げることなく、59から65まで上げ、フロンティアードの席も3回連続Bの1列目になりました。第5回で岐阜模試の順位1ケタをとれて、なによりフロンティアードで2番目の席に座れて、ほんとにこれまでにないうれしさを感じました。でも隣の席の子を見たら、これだけやってもまだ上には上がいるんだなと思って、さらに燃えてきました。

でも私は、年末とお正月に勉強を少しだけサボってしまいました。そのせいか分からないけど、第6回と第7回の岐阜模試はどんどん下がっていきました。その時が、私の中では一番どん底に落ちた気がしました。すごくすごく悔しかったです。ずっとしっかりやってきたつもりだったけど、まだ勉強量と時間と気持ちが足りないなと思いました。ずっと本気でやってきたことに変わりはないけれど、おそいけど、本当の本気で勉強に専念して、心から楽しめたのは2月からでした。最後の30日はあっという間でした。

私は、受験生として1年をGRANですごして、勉強することの本当の意味が分かりました。言葉でなんて言えばいいか分からないけど、本気でがんばった人にしか分からない感じだと思います。私は後悔するのがだいっきらいです。後悔のない人生にしたいし、毎日楽しく生きたいです。そのためには、「努力」が絶対に必要です。努力が報われる瞬間が一番幸せだと思います。私は一番がんばって勉強したって自信を持って言えます。本当に心の底から自分はがんばったって思います。だから、入試が終わった後の解放感やばいです。

あと私は、当日まったく緊張しなかったし、逆に問題をとくのが楽しみでした。自分の3年間の努力がどこまで出せるかが楽しみでした。今までのやってきたノートとかプリントとかテストが、最後には最大の自分の武器になります。3年間の勉強は武器を作るためだと思います。本番はその武器で自分の力で戦うだけです。

私は本当の本当にGRANに入ってよかったです。いつも笑顔で迎え入れてくれて、忙しい時でも質問に答えてくれる先生、毎日一緒に机に向かって、いい刺激を与えてくれる仲間に囲まれて、ここまでやってこられました。GRANを選んでほんとによかったです。GRANは第2の家で雰囲気がすごく好きでした。ありがとうございました。いつも、のほほんとしていて、受験生としての気持ちとかもそうだし、分からない問題があっても優しく教えてくれた村林先生、3年間最高な日々をありがとうございました。いつも明るくてしゃべりやすくて、でもやる時はやるっていうか、ちゃんと分かりやすく教えてくれた大音先生、ありがとうございました。

後輩のみなさんへ。自分の受験をどんなふうにするかは、自分で決めてください。私は、絶対に後悔しない道を選びました。一生懸命やる人は本当にかっこいいと思います。周りから憧れられるような存在になってください。人生は一度きりです。中3も一度きりです。今のメンバーで勉強できるのも一度きりです。大切にして、感謝を忘れずに、最高な人生の思い出になるような1年にしてください。

みんな必死です。自分も勉強しないとどんどん抜かされていきます。

大垣北高校 合格
佐部利 結衣
スイトテラス校
興文中学校

私が、受験を通して学んだことは2つです。

1つ目は勉強の継続の大切さです。中1・中2の時はテスト勉強や授業中の態度もしっかりしていたので、内申が割とある方でした。しかし中3に上がってテストの点数が下がり、志望校を変更するぐらいまで内申も下がりました。1・2年生は点数が安定していたから3年生もきっと大丈夫という油断が一番点数を下げた原因だと思います。3年生で点数が下がると、ばん回するチャンスは本当に少なくなります。これから受験するみなさんは、最後まで良い意味で自分を追いつめて勉強を頑張ってください。

2つ目は思いがけない人が点数を抜かしてくるということです。中1の時、自分より期末の点数が100点以上も下だった子や、中2の時、1教科80点とれていなかった子に点数を抜かされました。みんな志望校に合格するために死ぬ気で勉強します。その分自分も勉強しないとどんどん抜かされていきます。抜かされないために遊ぶ時間をすべて勉強時間に注いでも点数が抜かされる時はあります。その中でどれだけ頑張れるかが合格と不合格を分けます。自分が後悔しない結果になるよう、これから受験勉強、頑張ってください。

受験は、学力の成長以上に気持ちや意識の成長が大切だと気づいた。

大垣北高校 合格
田中 春篤
垂井校
不破中学校

「志望校に受からない、落ちる」これは小学生の頃、初めて統一テストを受けた時に得た感情だ。しかし受験前日はその感情よりも受験に対してワクワクしている自分を感じた。そのようになれたのは、塾で様々な経験をしたり、いろんなことを意識してきたりしたからだと思った。

小学生の時の僕は、勉強のことが嫌いだったのかあまり宿題をやらないという時期があった。そんな時、浅野先生が僕に、強くそのことについて注意したことがあった。先生が僕に強く注意した理由は宿題をやらなかったことだと当時は思ったが、別の理由だったことに最近気づいた。本当の理由は、授業に向けてしっかり準備しなかったからだと思う。この経験から、僕は目の前にあるどんなことにもしっかり向き合う意識をした。中学校の定期テストや岐阜模試だけではなく、夏休みの小テストや学校の単元テストなど小さなことにも全力で取り組むためにしっかりと準備をした。これをしてからは僕の成績や学力が大きく成長したことを感じた。この意識を持つことが受験に受かるための1つの鍵であり、今後の人生でも大切になってくると思う。

この意識があるだけで学力の成長が大きく加速することは事実だが、これだけでは足りないと感じた経験があった。中学3年生に入った時1回目の岐阜模試があった。この模試で僕は高い点数を取ったため、お盆にある特別合宿に参加するためのテストを受けることができた。しかしそこで僕は良い点数を取れなかったため合宿には行くことができなかった。どれだけ目の前のことを乗り越えても、僕よりも学力が高い人がいることを痛感した。その人たちになんとか追いつくために僕は勉強する時間を増やした。22時30分まで自習をしたり、学校から家に帰った後はすぐに机に向き合ったりした。このようにたくさんがんばれたのは、志望校に合格したいという気持ちが強かったからだと思う。この気持ちは、受験に受かるためなら何でもするという覚悟のようなものだ。だからこの合宿の経験から、目標を達成するために気持ちをすてて努力するという覚悟を手に入れた。この覚悟や気持ちも受験に受かるための大切な要素だと思う。

夏休みの後の岐阜模試ではたくさん勉強したこともあってか、僕の目標の400点を取ることができた。しかしその1か月後にあった4回目の岐阜模試では、僕は320点を取った。夏休みから勉強の質は落としたつもりもないし、勉強時間も土日でたくさん確保していたから、この点数は僕にとても強いショックを与えた。夏休みからずっとあの覚悟はあったのにこの点数だったから、モチベーションは大きく下がった。もう勉強するのをやめようかと考えるほどだった。その気持ちと同時に、次は高い点数を取るために4回目から勉強のスタイルを変えた。すると5回目は再び400点を取ることができた。このことから、目の前の結果を真に受けて悲しみすぎたり喜びすぎたりせずに、自分の勉強の仕方や意識を改善することを大切にする必要があると思った。

受験当日では今までしてきたことを振り返ると、不安になることはなかった。小さな準備を積み重ねてきたからだ。そんな気持ちでいられたため落ちついて受験を受けることができた。その結果、僕は無事に志望校に合格することができた。受験勉強では学力の成長以上に気持ちや意識の成長が大切だと気づいた。「目の前の目標をしっかり乗り越える」「受験に対する強い覚悟を持つ」「目の前の結果だけを真に受けない」この3つの意識が受験を通して得ることができた宝物だ。受験勉強では勉強のことよりも自分だけが得られる気持ちを探すことも楽しみだと思っている。

これからも再び大学受験などの大きな試練がある。そこでも高校受験で得たことを大切にしたいと思った。さらに新たな気持ちの成長をすることを期待したいと思っている。「一生懸命が実を結ぶ」これは、そんな気持ちに向き合ったりたくさん勉強したりして努力すると結果が表れるという意味だ。

ライバルを得て、自分も頑張らなくてはいけないと思いました。

大垣北高校 合格
金井 陽香
安八校
東安中学校

「受験は団体戦。」中3になってから、この言葉をよく聞くようになりました。でも、私はずっとこの言葉を信じていませんでした。いくら一緒に勉強したからといって、テストを受けるとき他の誰かが助けてくれるわけではない。受験は個人戦だと思っていたからです。

最初、私は塾が嫌いでした。知っている人がおらず、いつも休み時間は1人だったからです。でも、3年間通ううちに、「嫌いな場所」から、「好きな場所」に変わりました。今では、塾に通っていてよかったと心から思っています。その理由は3つあります。

塾に通っていてよかったと思う理由の1つは、ライバルがいたことです。自分と同じくらいのレベルで、自分よりもはるかに頑張っている子が同じ校舎にいました。初めはあまり気にしていなかったけど、だんだんと意識するようになり、その子には負けたくないと思うようになりました。いつ塾へ行っても自習室で勉強していて、分からないことは質問をしたり調べたりしている。その姿を見て、自分も頑張らなくてはいけないと思いました。あの子が頑張っているから、自分も頑張ろう。そう思って、受験勉強も頑張れました。

2つ目は、生徒のことを信じて、本気で応援してくれる先生に出会えたことです。私は中学校の吹奏楽部に入っていて、塾よりも部活を優先していました。3年生の夏休みもずっと部活動を優先しました。当然、他の受験生よりも勉強時間が短かったです。しかし、受験生なんだから部活をやめてもっと勉強しろ、とは一度も言われませんでした。部活のコンクールでよい賞をとれたときは、「よかったね」と言ってもらえて、とても嬉しかったです。この校舎だったから、部活動にも全力で取り組むことができたと思います。受検も、当日まで本当にたくさん支えてもらいました。前日にはメッセージカードをもらい、そのメッセージのおかげで、落ち着いて受検することができました。質問に丁寧に答えてくれて、受検当日も寒い中、朝から校舎で応援してくれました。優しくて、本当によい先生に出会えたと思っています。

3つ目は、同じ校舎の仲間の存在です。毎日自習室に来て、はちまきをして勉強している。授業中も真剣に先生の話を聞いている。仲間の勉強に対する姿勢を見て、自分もやらないと、と思いました。最初に書いたように、私は「受験は団体戦」ではないと思っていました。でも、この仲間と勉強することで、「受験は団体戦」の意味が分かったと思います。自分1人だと、どこかで集中力が切れて勉強を止めてしまう。だけど、頑張っている仲間がいたら、自分もあと少し頑張ってみようと思える。その「あと少し」が大事だと思います。そうやって頑張ってきたことが自信になる。1人で頑張ることももちろん大切です。でも、仲間がいると1人のときより頑張ろうと思える。1人のときより楽しく何かに取り組める。だから、私は家で勉強するよりも自習室で勉強することの方が好きです。入試のとき、テストを受けるのは1人だけれど、「志望校合格」という同じ目標に向けて、努力してきた仲間がいる。励まし合って、一緒に勉強する仲間ができて本当によかったと思っています。

私が合格できたのはたくさんの人に支えてもらったからだと思います。毎日送迎してくれた家族に、応援してくれる先生。たくさん話してくれた、塾や学校の友達。一緒に勉強する仲間。本当にたくさんの人に応援してもらって、合格することができました。本当にありがとう。この感謝を忘れず、これからも頑張ります。

勉強ってこんなにおもしろかったんだ。新しい自分の感情に気づいた。

大垣商業高校 合格
田上 結菜
池田校
池田中学校

中2の冬。最後の期末テストで300点を下まわり、中3になること、受験生になることへの不安が一気におしよせてきた。塾は通っていたが点数が上がらず、塾を変えるか変えないか、悩んだ日々を覚えている。その時、志門塾に出会った。私の学校では、志門塾には賢い人しか行けない、いないという、私からすると手に届かないほど遠い存在だった。

志望校に行くという強い思いもあり、志門に行くことを決めた。今までと環境ががらっと変わり、10時にはベッドにいた私だが、夜おそくまで勉強するようになった。テニスとの両立もあり、毎日大変で嫌になった時もある。思ったより忙しい日々で、勉強でもテニスでも上手く結果が残せなかった。中途半端なことばっかだった。

そんな時、塾のサポートもあり、テストで400点をこえた。200点台の私がこんなにもとれるようになった。この時のよろこびは忘れられない。そして、勉強ってこんなにおもしろかったんだ。新しい自分の感情、未知の世界に足をふみ入れた気がした。高橋先生の社会の授業が、私は一番好きだった。先生のわくわくした声、体の表現。こんなに社会っておもしろかったんだ。社会をもっと勉強してみたいと思うようになった。そして50点台の私が、最高で98点をとることができた。自分の努力を点数にすることはこんなにも大切なんだと分かった。受験生の実感も湧いてきた。志門に入って良かった。勉強を楽しめると感じることができて本当に良かった。

しかし、上手くいくことばかりではなかった。なかなか点数が上がらず、勉強に身が入らなかった日々。勉強したくなくてテニスに逃げてしまった弱い自分。そんな自分が嫌で嫌いにもなった。でも、塾へ行くといつも元気になれた。モチベーションが上がった。環境って大切だと気づけた。

そして私は、独自検査を受けることにした。面接があるという負担は私にとって思ったより大きかった。勉強だけではなく、自己表現の練習。作文用紙4枚を暗記し、言葉にもした。質疑応答の練習や礼儀作法も。他のみんなに比べたらやることが多くて「みんないいな」と思っていた。今の自分は、過去の自分はバカだったと思う。1人では練習できず、いつも支えてくれたお母さん。お父さん。おじいちゃん、おばあちゃん。先生方。私はいろんな人に支えてもらっていたんだと、受験という山場を通して気づくことができました。

この先、つらいことや嫌になることがたくさんあると思うけど、感謝を大切にして過ごしていきたいと思う。みんなに出会えたこと、志門生の一員でいられたこと、本当に良かったと思う。

この1年間は、今までの人生で一番勉強した年となりました。

虎姫高校 合格
中田 桜花
近江校
双葉中学校

この1年間は、今までの人生で一番勉強した年となりました。約1年前、大好きなダンスを辞めて塾に通い始めました。ダンスをがまんして、毎日課題や受験勉強をするのはとても大変でした。昼間は学校で授業や部活動をし、帰ってきてからは課題か塾があり、睡眠時間はかなり少なくなりました。環境になかなか慣れず、かなり生活リズムがみだれ、注意されることが多かったです。大事な書類はいつも言われるまで出さない、寝る時間は夜中、起きる時間は遅い、身のまわりのことができていない、部屋が散らかりっぱなしなど、何度も注意されたのに私はなおそうとしませんでした。今思うと、家族には毎回嫌な思いをさせていただろうし、迷惑ばかりかけていて申し訳ない気持ちです。

そして、夏休みからは毎日自習室に通うようになりました。毎日朝から晩まで勉強するのは大変でしたが、友達がいたから自分も「がんばろう」と思えました。最初はあまり乗り気ではなかったお盆特訓に参加し、色々な人から多くのことを学び、今では良い経験になったと思っています。そのため、正月特訓も必ず参加したいと思い、一緒にがんばれる仲間も増え、一生に一度の経験です。他の人はお正月に勉強してないと思うので、お正月から勉強をがんばれたことは大きな自信になっていたと思います。

また、朝早くからお弁当を作ってくれて、送り迎えをしてくれた家族に感謝です。それ以外にも、毎日当たり前に送り迎えをしてもらい、様々なところで支えてもらっていました。

ここまでがんばれて合格できたのは、支えてくれた家族や先生、一緒にがんばった友達のおかげです。合格できて終わりではないので、高校でも毎日がんばっていきます。また大好きなダンスを再開できて嬉しいです。