志門塾の子どもたちが書いてくれる体験記は長いものが多いですが、長さを感じさせません。
志門塾の受験体験記は変わっていると言われます。何の制限もなく子どもたちに自由に書いてもらっているためか長文になる場合が多いです。私たち講師が嬉しくなるのは行間に子どもたちの人間的成長が垣間見える時です。学力だけ優れている人間ではいけないと伝え続けてきたことが届いたと思えるからでしょう。志門塾の受験体験記は、そのまま私たち講師にとって自分への戒めや励みです。
志門塾の子どもたちが書いてくれる体験記は長いものが多いですが、長さを感じさせません。
志門塾の受験体験記は変わっていると言われます。何の制限もなく子どもたちに自由に書いてもらっているためか長文になる場合が多いです。私たち講師が嬉しくなるのは行間に子どもたちの人間的成長が垣間見える時です。学力だけ優れている人間ではいけないと伝え続けてきたことが届いたと思えるからでしょう。志門塾の受験体験記は、そのまま私たち講師にとって自分への戒めや励みです。
岐阜北高校 合格
山田 瑞稀
本荘校
岐阜中央中学校
「え、無理じゃない」
これが昨年の4月、志望校を学校の先生に伝えた時の反応だ。なぜこのような状態になったのか、それは簡単、私が先生の想像していたランクよりだいぶ上の高校を志望したからだ。あの時の先生の拍子抜けした顔は印象的で、一生の良い思い出になるだろう。
中1・中2と引越しで色んな所を転々とし、色んな塾に通ったが中学3年生丸々1年間、本当にお世話になった塾。それが志門塾の本荘校だった。この塾には、先輩のお言葉を借りるなら最強の先生が居た。この先生は、私がたくさんの塾に行って見てきた先生の中でも一番生徒のことを想っており、そして最強だった。成績が落ちてしまいショックを受けている時も、悩み事がある時も、話を聞きいつも的確なアドバイスをくださった。きっと私はこの塾に入らずこの先生と出会えていなければ、合格することができなかったと思う。それ程までに、私の中で本荘校という存在は大きいものだった。勉強においてだけではなく、人生、これからどのように生きていくか、という生き方についてもたくさんのことを教わった。困難に直面した場合はどうするのか、運の良い人間の特徴など、先生から聞く話はどれも面白いものばかりだった。志門塾で過ごしたこの1年を忘れることはきっと無いと思う。
学校の先生も最初こそ「無理だろ」と言っていたが、最終的には私の性格を理解し、私の背中を押してくれた。今となっては「大人になったら飲みに行くか。」と気軽に話してくれるような、良い先生である。
私はこの1年でたくさんの良い先生、良い友達と巡り会い、そしてたくさんの思い出を作れた。どれも良い思い出、ではなく辛いものも多くあったが、そんな時私を支えてくれていたのはいつも家族だった。家族には感謝しかない。いつも私の話を聞いて、一緒に泣いて、朝お弁当を作って、夜遅くに送迎してくれたお母さん、本当にありがとう。毎月塾の請求書が届くたびに白目むいてたお父さん、志望校を変更するか迷っていた時、「自分の行きたい所に行ったらいいよ。」と言ってくれてありがとう。
泣いて、泣いて、泣いて、もう嫌だと叫んで諦めかけたこともあったけれど、そのたび色んな人が支えてくれた。人は周りの人たちの支えがあって生きていけると、改めて感じる。今度は私が誰かの支えになりたいと、そう思う。
中学3年生の1年、私を支えてくれた人々にもう一度言いたい。
本当にありがとう。
岐阜高校 合格
小寺 沙季
長森校
長森南中学校
「人が変わって結果も変わる」私はこの言葉をこの1年で、身をもって体験したと思う。
私はもともと勉強というものが好きではなかった。学ぶことは楽しいけれど、机に縛られて、静かに、常に頭を回転させていなければいけないのは苦痛で、集中も続かなかったし、中2の頃は長森校でのテスト期間が始まっても、休んだり9時ごろに帰ったりすることが多かった。そんな私が岐阜高校を目指すようになったのは、尾関先生との面談で岐阜高校の紹介を受けたからだ。タブレットにのっている岐高の校舎を見たとき、私は一瞬にして岐高のとりこになった。県一番のこの学校、校舎に通いたい。岐阜高校と書かれたシールを自転車にはりたいと強く感じた。
1学期の中学校の三者懇談で、私は初めて懇談に来てくれたお父さんに、自分が岐阜高校を目指していることを言った。お父さんはすごく驚いていて、でも否定もしなかった。「お母さんが聞いたら文句言われるよ」と笑って言った。懇談が終わったあと、お父さんは岐阜5校と鶯谷高校を見に、車で連れていってくれた。加納高校、鶯谷高校を見て岐阜高校に来たとき、お父さんが言った。
「自分の娘が岐阜高校に通うのか。」
私はそれを聞いてすごく嬉しくなった。私が岐阜高校を目指すことを応援してくれることに気づいた。今のままじゃ無理ですよ、と学校の先生に言われたばっかりで暗い気持ちだったけど、頑張ろうと思えた。
塾や学校の友達と「どの高校に行くの。」と会話をするようになって、みんなが本当に真剣に進路について考える時期になった。でも私の成績はずっと上がらなくて、岐阜模試が第5回になっても第6回になっても400点は越えなかった。日がたつにつれてどんどん焦ってきて、でも岐高には行きたいから志望校は変えなかった。何とかしなければ、と思って私は必死に勉強し始めた。それまでは休みがちだった自習も毎日行くようになって、社会の重要年号を一から覚えたり、数学や国語の文章問題を1日1つやったりした。どんどん塾で机に向かって勉強を続けていくうちに、勉強が苦から楽しいことに変わっていくのが分かった。楽しいことに勉強が変わったことで学ぶ意欲もどんどん出てきて、夜ごはんの弁当を持って勉強に来ることも多くなった。1月、2月になると自分を取り巻く空気が勉強をしていると変わるような感じで、他事に気を取られずに問題を解けるようになり、点数もぐんぐん上がった。本当に学んだことが身につくのが分かった。
本当に私がここまで成長できたのも、岐阜高校に合格できたのも、ほとんどが周りのおかげだと思う。お母さんは私とよくぶつかることがあったけど、私に合格してほしい一心だったと思う。私を長森校に入れて、行きたい進路を私よりも真剣に考えてくれてありがとう。お父さん、お父さんは常に私を信じて、合格を願ってくれた。私が弱音をはいたときも、勇気付けてくれてありがとう。学校の友達は、私が岐高に行きたいと言ったとき、笑わなかったし、「あんたならいけるやろ。」ってずっと言い続けてくれた。本当にありがとう。学校の担任の先生は私の進路を真剣に考えてくれて、背中を押してくれた。ありがとう。
そして長森校で一緒に頑張ったみんなと先生。私がここまで頑張れたのはみんなが築いた最高の長森校があったからだと思う。いつ私が自習室に来ても誰かがいたし、みんなでご飯を買いに行ったり、塾からそのまま学校に登校したり、直前講習で岐阜本部校から帰ったりすごく楽しかった。みんなの背中を見て勉強ができて、同じ空間で学べて本当に良かった。受験の合格は一生忘れないだろうけど、志門塾長森校第19期生として過ごした受験期の1年はそれ以上の最高の思い出になったと思う。
本当にありがとう。
岐阜高校 合格
石田 陽菜
島校
島中学校
私は、入試本番、思ったような点数が取れませんでした。とても悔しかったです。でも、この受験を通して、私は大きく成長したと思います。
私は、昔から自分に自信がなく、ネガティブ思考でした。何に対しても、「できない」「無理だ」と言ってきたし、塾で演習をしている時、「間違っていたら、恥ずかしい」「自分が間違っている所を見られたくない」という変なプライドで、先生が生徒の解答を見て回っていると、腕などで自分の解答を隠していました。受験に対しても弱気で、初めは「岐阜高校なんて、行けるはずがない。」と思っていました。
そんな私が変わったのは、3年の秋ぐらいだったと思います。夏休みの高校見学やお盆特講を通して、高校生活をイメージしたり、頑張っている仲間に刺激をもらったりして、「私は岐阜高校に行きたい。」という思いが強くなっていきました。塾の先生にも、「岐阜高校に行く」と自信を持って言い切ることができるようになったし、徐々に、「無理」などのマイナスな発言も減ってきました。
そして迎えた第7回岐阜模試―私は大コケしました。緊張のせいなのか、焦って頭が真っ白になり、結果が返って来た時、私はどん底に突き落とされたような気持ちになりました。母がその結果を知った時、こう言いました。
「岐高、諦めた方がいいんじゃない?」
私は怒りや悔しさ、悲しさでぐちゃぐちゃになりました。昔の私だったら、母にこうしなさい、ああしなさいと言われたら、それに従ってきたため、諦めていたと思います。でも、「岐阜高校に行く」ということだけは、誰にも譲れませんでした。不合格になることよりも、岐阜高校を諦めることの方が嫌でした。そう思うほど、自分の意志が強くなり、強いメンタルを持って、受験本番に臨めたことが私の大きな成長です。
私が成長できたのは、私を支えてくれた親、先生、仲間のおかげでもあります。私1人では、成長できなかったし、周りの人達が本気で勉強に取り組んだり、本気で応援したりしてくれたおかげで、「私も諦めてはいけない」と思い、最後まで頑張ることができました。今まで支えてくれた両親、先生、仲間達、本当にありがとう。
私は、これからも自分に自信を持って、物事に取り組んでいきたいです。何に対しても、初めから無理だと決めつけず、まずは挑戦していきます。そして、今度こそは、自分の実力を発揮し、「やりきった」と思えるような受験にしていきたいです。
加納高校 合格
榊󠄀原 由奈
茜部校
加納中学校
私は、中学2年生の春から定期テスト対策且つ受験対策のために志門塾に通いました。塾に入塾したことで、学習時間が確保され、学習意欲が高まりました。又、塾の先生方がそれぞれの教科のプロフェッショナルで、知識が深まりました。この志門塾に通うことができて良かったと思っています。
中学1年生の頃の私は、加納高校には到底合格できるレベルではありませんでした。しかし、そこからの努力で大きく変わることができました。
私が高校受験を経て学んだことは、緊張感を持つことの大切さです。特に、塾での岐阜模試で感じました。緊張感を持つことで、自分の中で理想を追求したいという思いが芽生えました。緊張することは、多少の焦りにつながるけれど、年間8回の模試を通して、その緊張を集中力に変えることができるようになりました。模試は、自分の学力が分かるだけでなく、自分の克服しなければならない部分も分からせてくれました。苦手と向き合うのは、とてもつらかったけれど、それを乗り越えたおかげで、受験当日、自信を持って臨むことができました。
私の力だけでは、合格はできなかったと思います。支えてくれた周りの方々に、今後の姿で感謝を伝えていきます。
これから高校受験を迎える皆さんに伝えたいことがあります。それは、落ち着きを忘れないことです。少しでも焦ってしまうと、自信がなくなり、問題が手に負えなくなります。定期テストや模試の機会を大切にして、テストに慣れてください。そうすれば、常に自分の全力が出せると思います。頑張ってください。
岐阜高校 合格
渡邉 愛莉
七郷校
岐阜西中学校
岐阜高校は私にとって憧れで、手の届かない存在だと思っていた。
私は中1の春、七郷校に入塾した。小学生のころはテストで満点をとって当たり前だった私は、中学の勉強もきっと大丈夫だろうと信じていた。ところが、志門塾の第1回統一テスト。私はその結果に打ちのめされた。自分が満足していたのは学校という小さな世界での結果でしかなかった。高校受験という広い視野を持っていかなければならないと思った。そして、その気づきと悔しさが自分の中で原動力となった。午前は部活、午後は自習室。土日はほぼこのルーティンだった。続けるうちに、結果が出るようになったことを実感した。中2になるころには、中1のころに比べ、私の統一テストの偏差値は10以上上がっていた。初めは嫌だった勉強にやりがいを感じられるようになった。
いよいよ中3、第1回岐阜模試。私は志望校欄に「岐阜高校」と記入した。「100位以内に入れ」という大形先生の言葉があったおかげで、私は緊張感を持って、挑むことができた。その目標は達成できたものの、上には上がいると思い知らされた。私はまだまだだと思った。それからは基礎講習や自習室など自然と勉強時間が増えたが、私はまだ受験に対して本気になれずにいた。
部活を引退し、夏休みに入ってすぐ高校見学があった。私が見学したのは岐阜高校のみだ。そこには、岐阜高校だけに集中したいという思いがあった。私は堂々とたたずむ高校の校舎を見て、「岐阜高校に行きたい」とますます強く思うようになった。私は先生のアドバイス通り、朝は自習室、昼は講習、夜も自習室というルーティンを繰り返した。夏期講習やお盆特訓のテキストをボロボロになるくらい何度も解いた。また、私は先生からのすすめで、お盆特講へも行った。七郷校からは女子一人で不安な気持ちがあったが、一人でも楽しんでやろうという気持ちを持ち続けた。そこには“受験に挑む者しか味わえない夏”があった。この夏得たものは、志望校に挑む私の背中をさらに前へと押してくれた。
2月中旬、倍率が発表され、不安から願書を変更する仲間が多く見られるようになったが、私は第1志望を貫き通した。中学3年間何のために勉強してきたのか。支えてくれた両親、塾の先生、仲間の期待に応えるために。「絶対合格する」と自分を奮い立たせた。校舎のダルマに書いた「憧れを超える」。くじけそうなときは「憧れの岐高生になる」と何度も自分に言い聞かせ、入試2週間前、モチベーションを上げ、勉強だけに集中した。
入試前日。先生方は一人ひとりに声をかけ、背中を押した。私は「焦らず」「楽しんで」と声をかけてもらい、長谷川先生に強く背中を押してもらった。
そして、迎えた入試当日。私は先生方からもらった御守りと背中に残るほのかなぬくもりを抱え、岐阜高校の校門をくぐった。国語が始まるまでが一番緊張したが、それからは楽しく問題を解けた。リスニングが1回しか流れなかったのは驚いたけれど、毎朝、2倍速で過去のリスニングを聞いていたので、当日はとてもゆっくりに聞こえた。入試も模試のように解けばよいと思うと、気持ちが楽で、どこかで解いたことがあると思うと、余裕に感じられた。
合格発表当日、入試当日よりもはるかに大きな緊張がこみ上げた。あちこちから喜びや悲しみの声が聞こえる中、私は落ちついて自分の番号を探した。「あった。」私は安心する気持ちでいっぱいだった。母は手が震えるくらい合格を喜んでくれた。説明会が終わり、帰りの車の中で「春から岐高生なんだ」と改めて実感した。
一人ひとりを想い、時には厳しい声をかける大形先生とやさしい笑顔でみんなを見守る長谷川先生のもとで学んだことは勉強だけでなく、一人の人間として成長する糧となった。七郷の先生、仲間と互いに高め合った日々は一生忘れない。3年後、胸を張って、七郷校に戻ってきたい。
岐阜北高校 合格
信田 莉玖
粟野校
岩野田中学校
僕が中3になった時、岐阜北高校を志望していました。そして1回目の実力テストの時、その目標がとても遠いということに気づきました。学校の先生からは岐山高校に行くことも難しいように言われました。
僕は8月に入塾しました。入塾した時の三者懇談で今井先生に、志望校は、第1志望を岐阜北高校、第2志望を岐山高校と伝え、将来の夢を医療系と言ったら、
「医療系になるなら北高校だな。」
とあっさり言ってくれました。正直その時の状況がよくなかった僕に、その言葉はとてもありがたいように感じました。まだ自分は岐阜北に行くことができると自信が湧いてきました。夏期講習では今までやったことのないほど勉強をしました。夏期講習、夏秋講習などで1~3年の基礎を固めたり、自習で自分の苦手をなくしたりして、どんどん目標に近づいていきました。しかし、途中で壁にぶつかりました。それは、受験1か月半前になって岐山高校は安全圏になったけど、岐阜北高校にはまだ遠いということです。この問題ができてしまったため、受験でどちらを受けるかという問題につながっていきました。その問題を支えてくれたのが親でした。
「夏休みから今までとても頑張ったから、後は自分を信じて突き進んでいけばいいよ。」
そのように言ってくれたのは母でした。その時僕は夏休みのころの自分を思い出しました。夏休みから勉強をとても頑張った自分、志門塾に入ってから実力テストの点数が上がった自分など、そこにはいろいろな自分がいました。そして僕は今までずっと頑張ってきた自分を信じて岐阜北高校を受けることに決めました。その時の自分は、受験10日前のプレテストで高得点をとって自信をつけて、入試当日で合格できる点数をとると考えていました。しかし、現実を見てみると、それほど簡単なことでもありませんでした。プレテストで360点台をとってしまったのです。そのころは変更期間も終わっていて、あとはただ頑張るしかなかったのです。その時は毎日がとても辛かったです。自分の考え通りにいかなかったのがとても悔しくて泣きそうでもありました。しかし最後の1週間で今井先生が個別指導をしてくれました。その最後のふんばりもあったからか、岐阜北高校に合格することができました。
努力はいつかは報われるという言葉を初めて実感できるような体験になりました。僕は今まであまり努力が続かなかったから、自分が合格と知った瞬間、とてもうれしかったです。今後大学受験などもあり、それは高校受験の何倍も苦しいと思うから、高校1年生の時から今年磨いた継続力を発揮したいです。
岐阜北高校 合格
八代 莉子
北方校
岐阜西中学校
「10、9、8・・・3、2、1、0」「合格」高鳴る鼓動をおさえながら8時59分50秒からカウントダウンをしてWEBでの合格確認をした。ボタンを押すだけで合格か不合格かが分かるかと思うと、とても大きな不安に押しつぶされそうになった。合格と分かった瞬間、不気味な静寂を突き破るような歓喜の雄叫びがあがった。それは、私だけではなく、家族全員の歓喜の声でもあった。滅多に泣かない私でも号泣して家族と抱き合い喜びを分かち合っていた。本当に今までずっと努力し続けてきてよかったと心からそう思った。
今、振り返ると、志門塾北方校に入塾したのは小学2年生のころであった。塾には約8年間お世話になった。小学生のころは第2の学校という感覚で塾に通っており、なんとなく勉強していた。中学に入ってもそのような勉強をしていたため、ケアレスミスが多く、実際先生から勉強法について指摘されたこともあった。また、そのころから成績が下がり始めたため、私は本気で勉強法を変えようと思い、それまでは時間だけを重視していた勉強法から時間も重視しながら質の高い勉強法にしようとした。だから、問題を解くときは見直しをしなくてもいいように最初から丁寧に解いたり、計算を焦らずに丁寧にやるなど、とにかく丁寧さにこだわった。丁寧さを意識するようになってから、とてもケアレスミスが減るようになり先生にもそのことをほめられた。
中学3年生になると、「岐阜模試」がやってきた。第1回の岐阜模試の志望校判断ではA判定を取ることができ、自信過剰になってしまったため、第2回岐阜模試では数学で今までどのテストでも取ったことのないような点数を取り、さらに、他の教科でも焦ってしまい、全体的に悪い点数となってしまった。もともと数学は苦手科目だった。したがって、その後は過去問や分野別問題集を反復演習し、苦手意識の払拭と克服に取り組んだ。結果として、入試当日では8割以上の点数を取ることができた。また、その他の苦手な科目や単元を克服するために、「分からない」をなくしたり、同じミスを繰り返さないようにするために、とにかくたくさんの演習量をこなした。そうしたことで一番最後の入試直前のプレテストでは、同じ志望校受験者での平均点を大きく上回る点数を取ることができ、そのことは自分の大きな自信にもつながった。そして入試当日。入試当日は緊張という感じより、絶対に今日点数を取ってやるぞという熱い思いで入試を迎えることができた。また、あまりできたという実感がなくても、次の教科へと気持ちを切り替えることができたため、どの教科でも自分のペースでとても落ち着いて問題を解くことができた。そして楽しんで入試を終えて、心から悔いのない受験にできたと思えたから本当によかったと思う。
私なりに志望校合格のポイントを3点挙げたいと思う。
まず、初めに、志門塾にいる高いレベルの仲間たちとの切磋琢磨があったこと。特に私がお世話になった志門塾北方校では、定期テスト、岐阜模試等どの試験結果においても常に1位の好成績を収めており、必然的に努力できる環境があったこと。また、中学3年の夏合宿や高校部での入試対策講座、正月特訓で他校舎のライバルの実力を知ることができて、上には上がいるということが分かったとともに、同じ志望校の仲間の中での実力を知ることができたのは大きな自信にもなった。
次に、先ほど述べたように苦手分野を徹底的に取り組んだこと。理科の苦手分野や国語の作文、英語の英作文等、自分なりに課題を見つけてたくさん演習をした。特に、国語の作文は、入試直前のプレテストで時間が足りず、途中までしか書けなかったことがあった。とても危機感を覚えた私は、入試までの約1週間の間、毎日2個ずつ過去に解いたことのある作文の問題を、もう一度時間を決めて書いては水木先生に添削していただくということを繰り返した。そして入試当日で国語は満点を取ることができたので、努力した成果は出たと思う。
そして、周りの素晴らしいサポートに恵まれたこと。志門塾の先生方。勉強法や苦手科目の克服の仕方についていつも的確にアドバイスしてくださった江口先生。入塾以来ずっと私の成長を見守ってくださったり、入試直前まで国語の作文の添削を徹底してご指導していただいたりした水木先生。また、入塾して以来お世話になった先生方をはじめ、全ての先生方が全力でサポートしてくれたことが大きかったと思う。
最後に、家族。ほぼ毎日塾に送迎してくれた両親。また、週末は丸一日自習に取り組んだため、毎回、食べきれないほどの美味しい弁当を作ってくれた母。いつも上手くいかない時に親身に相談に乗り、私を励まし、勇気づけてくれた姉。周りからの力強いサポートのおかげで勉強だけに集中することができた。改めて感謝したいと思う。
私は、受験を通して多くのことを学んだ。「仲間」「感謝」「努力」。この3年間本当に努力し続けてきた。特に、中学1年生からの1年間は勉強面だけでなく、他のことでもたくさん困難の連続があり、時には厳しい現実に打ちのめされそうになったことが多くあった。しかし、意地でも現実としっかり向き合おうとした。だから私は、受験を通して強靭なメンタルを身に着けることができたと思う。高校入試は終わったが、これから高校生活が始まるため、今はスタートラインに立ったばかりだ。高校入試を通じて学んだことを糧に高校生活を充実したものとし、自分の将来の夢に向かって突き進んでいきたいと思う。
岐阜北高校 合格
永田 祐晏
那加校
稲羽中学校
僕は受験を通して、支えてくれる人がいなければ何かを成し遂げることは不可能なのだと思いました。那加校の先生方は毎回の授業で、一つひとつの問題を丁寧に教えてくれました。時に、冗談や人生の教訓のようなことを言ってくれたおかげで、楽しさとともに授業の重みを感じることができました。また、分からないところがあれば、真剣に向き合って教えてくれたので、分からない問題を分かるようにする力が身につき、問題がどんどん解けるようになりました。難しい問題が解けた時のそう快感は今でも忘れられません。僕は、勉強の楽しさに気づかせてくれた先生方に本当に感謝しています。
受験本番が近づくにつれ、模試の点数が上がると大きな自信へとつながり、下がると大きな不安を抱えこむようになりました。そんな時に心の支えとなったのが仲間の存在です。自習室に行くと、那加校の仲間が机に向かって一生懸命勉強していました。その光景を目にする度、自分も那加校の一員として「合格」という同じ目標に向かっていることを再確認させられ、皆ともっと頑張りたいと強く感じました。お盆特訓ではそのことを更に強く感じました。お盆特訓初日は、同じ志門塾でも知らない人だらけで、少し緊張していたけど、那加校の仲間が話しかけてくれたおかげで緊張が和らぎ、初日から強いやる気を持って授業に臨むことができました。また、先生方が企画したハロウィンイベントや映画鑑賞会では仲間の良さや意外な一面に気づくことができ、皆の絆がより深まったと感じました。テストの前に書く壁の言葉では、皆のテストや入試に対する強い思いが、それぞれの言葉として並べられていたので、とても勇気づけられました。入試直前になって、なぜ自分はこんなにもできないんだと思い悩んだこともあったけど、自分よりもつらい思いをしているのにも関わらず、決してそれに屈せず、強いメンタルで頑張っている仲間の姿を見て、小さなことでネガティブになっている自分を見つめ直し、絶対合格してやるんだというバネに変えることができました。仲間の存在がなかったら、自分は絶対弱いままでした。だから、本気で頑張る皆の姿を間近で感じることができて本当に幸せでした。ありがとう。
僕はこの1年間で、両親の支えやすごさをとても実感しました。仕事が忙しくても塾に送ってくれて、朝早くても夜11時になっても、何時になっても「お疲れ」と言って送り迎えをしてくれる両親に言葉では表せられない感謝を感じています。布団に潜り込んで隠れて泣いている時にはすぐに駆け寄ってくれて「大丈夫」と優しい言葉で僕をはげましてくれました。いろんな支えがあったから、自分もその思いに応えたいと思い、1年間続けて努力をすることができました。高校に合格した時は一緒になって喜んでくれて、涙を流してくれて、本当に1年間頑張って良かったと思いました。改めて、両親に感謝を伝えたいです。
この1年間で経験したことの全てが刺激になって、勉強面でも人間面でも自分自身を成長させてくれました。それらの財産と合格の喜びを与えてくれた先生、仲間、家族に今一度、感謝したいです。本当にありがとう。
岐阜北高校 合格
横山 かりん
蘇原校
蘇原中学校
私は小学6年生の2月に志門塾に入塾した。小学校から勉強が大嫌いで散々逃げてきた。テストの結果が良かった事なんてなかった。勉強をしなかったわけではない。しっかりテスト前に勉強したのにそうだったのだ。勉強の仕方が悪かったのかもしれないけれど、当時の私は「自分はやってもできない」というおもりが常に足をひっぱって、勉強を好きになることはできなかった。そんな小学6年生の冬、さすがにこのままではいけないと考え、志門塾蘇原校に母に頼んで入塾することを決めた。
入塾した私を待っていたのは圧の強い先生と優しそうな先生、そしてやる気のある頭の良い仲間達だった。最初は塾という場所が本当に怖く、膨大な量の宿題を当たり前のような顔して出す先生と、真顔でどんな問題でもスラスラ解いてしまう仲間に恐怖を覚えた。一度、志門塾を辞めてもっと厳しくない塾に入ることも考えた。けれどもう小学校の時のように逃げたくないと思い、頑張ってついていこうと努力した。そうこうしているうちに3人の親しい友達ができ、塾の休み時間が楽しくなった。あの3人と一緒に先生とカウンターで話す時間が本当に好きだった。
この15年の人生で一番変わった瞬間は、間違いなく中学1年生の時だと思う。蘇原校に入って自分が大きく成長し、可能性が広がった。私は中学1年生で成績、学力が大幅に上がり、やっとみんなと同じ土俵に上がれたという気分だった。しかし、やっぱり蘇原校のみんなに比べれば自分は点数が低い方だった。私は、中学校に入ってからほぼ毎日自習室に来て勉強をしていた。しかし同じ時期に入塾して同じくらいの勉強量、いやその子より多くの勉強量でも勝てる事が少なく、親のお金を無駄にしていると感じ、申し訳なかった。それでも逃げ出す事なく周りから刺激を得て頑張っていた。
中学3年生になり、いよいよ受験の年となった。そして日がたつにつれ不安が積もるようになり、涙する日が多くなった。岐阜模試の結果がC・D判定ばかりの私と違ってA・B判定をとる友達を見て心が苦しくなり、3年生から入った子が私よりも高い点数をとっているのを見て「私の方がずっと前から頑張ってきたのに…。」と妬むようになった。お盆特訓の際には自分と同じ志望校の子達がお盆特講に行くのに対し、自分は特講参加判断のテストさえ受けられず、自分の無力さを感じ涙を流した。けれどお盆特訓は自分のためになる事が多く、成長を実感できた。特訓後の岐阜模試ではB判定をとることができた。しかし、その次の岐阜模試でC判定になり、また気分が下がった。泣きながらも手を止める事はなかった私だが、本当に何もかも嫌になる時が来て沢山泣き、自分の不安を先生にぶつける事も多々あった。「頑張ってもできない」自分が嫌で態度で示してしまう事もあった。今思えばイライラを顔に出すなんて子供がする事で、我ながら面倒くさい奴であったが、先生達は私を見捨てること無く、受けとめてくれた。私が元気がないとすぐに声をかけ、何度も懇談をしてくれた。懇談の時、私は毎回泣いてしまうから1時間以上話すのが普通だった。河村先生が忙しいのは知っていた。1時間あれば色々な事を終わらせられたと思う。けれど先生は毎回1時間以上懇談をして親身に寄りそってくれた。私の過去の岐阜模試をプリントしてミスを確認し、ミスリストを作るよう教えてくれたり、自分の体験や様々な例、先輩の話などして励ましてくれた。先生は沢山の生徒の点数を上げてきているのに、私に「点数を上げさせてあげられないのが悔しい」と言ってくれた。怖い先生だと思っていたけれど、こんなにも1人1人の生徒を思う先生だと知り、河村先生にうれしい報告ができるようになりたいと思った。もう泣かない!と決めたが受験が近づくと気分が下がるようになり、ただの質問の時でさえ泣いてしまった。私はどうにかメンタルを強くしないといけないと思い、川島先生に相談する事を決めた。川島先生とは雑談する事が多く、私の話をいつも笑って聞いてくれる先生だったから、真面目な話をするには少し気恥ずかしかった。けれど私が話しやすいような雰囲気を作ってくれて、不安や悩んでいたことを話しメンタルを強くする方法を聞いた。その時何と答えてくれたのか、その時は気持ちが不安定で忘れてしまったが、出陣式の日「いつでも諦めなかったあなたのメンタルが弱いはずがない」と言ってくれて、沢山泣いてきた私は自分が思っている事と真逆のことを言われて拍子抜けしたが、その言葉が強い自信となった。
最後のプレテスト、私は400点を越えられなかった。けれどもう頑張るしかないと思い、泣かなかった。受験前日の最後の自習室、私が帰ろうとしていた時、友達がカウンターにいた。彼女は4人の中で一番頭が良く、辛い時、私を何度も慰めてくれていた。他の2人も色々協力してくれたり相談に乗ってくれたりした。仲間って本当にあたたかい。そんないつも励ましてくれる彼女が私の肩をつかんで最後の言葉をくれた。
「自分の可能性を信じるんだよ。」
私はその時涙が出た。心のどこかではやっぱり不安だったのかもしれない。頑張るしかないと分かっていても、合格点に全然とどいていなかったのは重荷であった。できない自分を嫌って信じていなかった。でもその言葉で今までの頑張ってきた自分を認め、信じてあげることができた。入試当日、英語が思ったようにいかず心が折れそうになった。でも、先生の言葉、蘇原校のみんなの顔、そして友達の言葉を思い出し、ぐっとこらえて全力を出しきった。
合格した時、本当にうれしかった。私は蘇原校の先生達、仲間、そしてずっと支えてくれた親がいなかったら絶対に合格していなかったと思う。沢山悩んで沢山泣いて逃げ出したい3年間だったけれど、今思えば自分が一番輝いていた3年間だと思う。
今まで私を苦しめ、大嫌いな勉強だったけれど、この受験で私はちょっと勉強のことが好きになれた。だって、こんなに素敵な出会いを与えてくれたのだから。
岐阜高校 合格
森 怜子
トップレベル選抜・大垣
西部中学校
私のこの1年のテーマは「克服」です。自分の弱さや怠けに打ち勝つことができました。
私は数学が苦手です。岐阜模試の点数はずっと60点台でした。夏期講習や夏秋講習のテキストを何周やっても点数はなかなか上がりませんでした。一番頑張って、他の教科の点数が上がっていく中で、できるようにならない数学を私は嫌いになっていました。勉強と同時に私はクラブ活動もしていました。でも、毎日朝から夜まで塾にいて、練習に全然参加できませんでした。思うように練習できないまま、迎えた中体連。結果は散々。たくさん泣いたけど、吹っ切れたように勉強に打ちこみ始めました。転機は難関対策講習の授業にありました。解答・解説を見ても分からない問題。次々にやってくる予習課題。午後1時の睡魔。成長しているのかも分からない自分と向き合わないといけない毎日がすごく辛かったです。それでも少しずつやっていくうちに数学を楽しいと思えるようになりました。難関対策が終わって公立入試に全力を注ぐようになってからは、数学にネガティブな感情をもつことが減りました。分野別に◯(マル)がつくことが増えました。自分に少し自信をもてるようになりました。
岐阜模試で何度も悔しい思いをして、自分自身に腹がたったり、本当に岐阜高校に入れるのかと思ったりしたことが数えきれないほどありました。それでも、志を曲げずにやってこられたのは、一緒に闘ってきたトップレベル選抜の仲間がいたからです。私が涙を流したとき、優しく励ましてくれてありがとう。家で辛いことがあったとき、話を聞いてくれてありがとう。何度質問をしても、私が理解できるまで教えてくださった寺部先生、いつも明るく授業してくださった黒田先生、ありがとうございました。忙しくても弁当を作って送り出してくれた家族、ありがとう。この1年はすごく苦しい1年でした。でも、私の一生の宝物です。
岐阜高校 合格
北川 恵愛
担任制
東安中学校
まず9年間お世話になった担任制。そして先生、両親に感謝の気持ちを伝えたいです。
私は、稲垣先生に言われたある言葉を今でも覚えています。それは「恵愛さんは努力の天才である」という言葉です。私は小学生の頃から真面目にコツコツと頑張っていました。でもその中でも数えきれないほどの苦しいこと、悔しいこと嬉しいことがありました。それでも私が自分に負けず、やり抜くことができたのは稲垣先生のこの言葉を信じて頑張れたからです。本当に本当にありがとうございました。
お父さんは仕事が忙しくて、なかなか頑張っている姿を見てくれてないと思っていたけれど、実は陰で誰よりも応援してくれていたと知りました。本当に本当にありがとう。お母さんは誰よりも厳しかったです。たくさんけんかしたり、ひどいことを言ったりしたけれど、それでも一番の味方でいてくれて最後まで私を信じてくれました。本当に本当にありがとう。
そして担任制のみんな。ここまで一緒に頑張ってくれて、辛いときも互いに励まし合い、乗り越えられました。みんなのおかげで自分も頑張れたし、仲間の大切さを知れました。出会えてよかったです。本当に本当にありがとう。受験は上手くいくことばかりではないです。嬉しいことがあった分、辛いこともそれに負けないくらいやってきます。上手くいったことしかないように見える子でも裏ではいろいろな思いになっていることを知りました。
それでも乗り越えられるのはたくさんの支えてくれる人がいるからです。上手くいっているときこそ謙虚に、自信をなくしたときこそ周りを頼り感謝に気付くことができた人が本物の合格者だと思います。これから先の人生いろいろなことがあるけれど、大好きな担任制で大好きな仲間や先生と過ごした9年間を胸に頑張り続けます。そして何より感謝を忘れずに伝えていきたいです。
本当に本当にありがとうございました。
岐阜高校 合格
海平 知南
GRAN
大垣南中学校
3月14日、合格発表の日。午前9時までの20分間が途方もなく長く感じられたことを覚えている。それは不安で仕方がなかったからではなく、自信があったからだ。発表が待ち遠しい。そんなふうに思えたのは、私には今まで積み上げてきた努力と結果があったからだ。
私が志門塾に入塾したのは、中1の冬期の頃だった。学校の定期テストで400点を下回ったら塾に入ろうと、母と約束していたのだ。私は中間テストで400点を下回ったうえに、数学で50点台という自分が見たことのない点数をとり、母との約束だからというよりは、人生で初めて感じた勉強に対する不安と焦りから、すがるような思いで入塾した。最初は入塾テストにも落ちるのではないかと思っていたが、「英語がこれだけできているのはすごい、数学はみんな難しいと感じる教科だから。」と言った先生の言葉は、実際は勉強のことを何も分かっていなかった私にとって救いとなった。しかし、同じ学校の子と統一テストの結果を比べた時、「自分ってやっぱり勉強ができない方なのかもしれない。」と自信をなくした。1年生や2年生の時点では大垣東高校を第1志望としていたが、大垣南高校に変えようかと迷うようになり、向上心すらもなくしていった。
ある日、母に志望校を聞かれ、南高校にしようと思っていることを伝えると、「志望校を下げるほどの力量不足なわけがない。もっとできるはず。」と言われた。その時は、勉強しているのは私なのに簡単に言わないで欲しいと思った。しかし、その言葉は勉強中何度も私の頭をよぎった。そこから、自分の力ってどれほどなんだろう、と試すように、統一テスト、そして岐阜模試を受けていった。母の言った「もっとできる」を信じ、努力を続けると、それには必ず結果がついてきた。そして、母の言葉だけでなく、自分自身を信じられるようになったのだ。順調に偏差値や順位を上げ、1年生の時は南高校に下げようとしていたところから、岐阜高校を狙えるまでになった。また、最初自分では手が届かないと思っていた同じ学校の子が、テストや模試の結果を毎回私に聞いてくるようになり、自分がバケモノだと思っていた人と同じレベルに立っているんだと嬉しくなった。点数が下がった第2回岐阜模試も、ヘコみはしたが前を向いてお盆特講に参加し、その後変わらず岐阜高校B判定を維持し続けた。フロンティアードでもB教室にとどまり続け、さらなる自信につながっていった。
そしてむかえた第8回岐阜模試、つまりはプレテスト。自信が慢心に変わることもなく、良い状態で受けることができた。また、そのおかげで、入試本番まで全力ダッシュでかけぬけることができ、岐阜高校合格をつかみとることができたのだ。
私がこの受験で学んだことは、自信をつけるには結果を出すこと、結果を出すには努力をすることが大切であるということ。そして、家族や先生のはげましは、同情や上っ面だけのものではなく、ちゃんと私たちをそばで見続けた中での、心からの言葉であること。手が届かないと思ったものにも、努力次第で届くこと。何よりも信頼できる言葉ではげましてくださった村林先生、私たちの目線に立って一緒にワイワイしゃべってくださった伊東先生と大音先生、慣れない中で授業してくださった大月先生、ありがとうございました。そして、かわいいはにわの置物をフロンティアードのカウンターに置いていた黒田先生、いやされました。本当にありがとうございました。すてきな先生や仲間に恵まれ、本当に楽しい受験でした。この経験は私の宝物です。
大垣東高校 合格
伊藤 美怜
スイトテラス校
大垣西中学校
私は、自分に限界を作って勝手に満足して勉強を終わってしまう人でした。だから、努力をすることが苦手で勉強は「しかたなくやる」というイメージでした。
中3になって本格的に受験への対策が行われました。受験に向けて頑張ろうと思う気持ちもありましたが、まだ先のことだと思っている自分もいました。高校入試対策講習を受けて、出された宿題をとりあえずやればいいと思い、やって満足して、そこで終わってしまいました。また、私は大問1問ずつに30分ほど解くことに時間がかかっており、さらに勉強をすることが嫌になりました。
しかし、岐阜模試は、なんとなく解いてそこそこの点数をとっていたのでこれでいいんだと思い、そこで自分の限界を勝手に作っていました。私は、分からないところがたくさんあるのにそのままにしていました。結果が良いのだから、復習はめんどくさいし、やらないでいいやと思い、「自分の思っている実力とテストの点数が合致していない」と疑問と違和感を持ちながら過ごして夏を終えていました。
すると、夏期講習の後の岐阜模試は300点程しかなく、私は「やっぱりそうか」と思いました。その時、私はこのままじゃダメだと思っていたことに気づきました。努力をすることが苦手だけれど、自分と向き合い努力するしかないと思えるようになりました。
そこから、岐阜模試の点数が上がり、復習や予習など大切にしました。特に私にとって大きかったのは冬休みで、正月特訓や冬期講習を通して、さらに自分の苦手科目や間違えたところを繰り返し解き直し、自分の点数や実力を上げられるように頑張りました。
これを読んだ人は、この人はテストの点数を反省して努力して上げたのね、と思ったかもしれませんが、実は実力テストは400点以上いったことがなくて370点止まりで、先生に最後の懇談で、「大垣東高校は厳しいね」と言われたぐらいです。大切なのは勉強を継続することと、復習することです。絶対に諦めないでください。点数が伸びなくても人それぞれ伸びは違います。徐々に上がる人だっているし、途中で上がる人、私みたいに最後の最後に伸びる人もいます。「分からない」がたくさんある時はチャンスです。直前講習で心がズタボロになりましたが希望を持ち頑張り、私は受験当日、440点程とることができました。点数が伸びなくても諦めないでください。「分からない」をいっぱい作ってください!
受験ファイト!!
大垣北高校 合格
二羽 めぐみ
静里校
西部中学校
「逆転合格。」私は高校受験でそれを達成することとなった。
私は中学2年生の春に志門塾に入塾した。1年生の頃は、テスト前日でもゲームをするなど、勉強への意識が低く危機感を覚えたからだ。塾に入り、初めの期末テストでは、大幅に自己新記録を更新した。うれしかった。しかし、まだ自分に合った勉強方法を知らないこともあり、中学2年生の中間テスト、学年末テストはなかなか成績が伸びなかった。中学2年生の後期、第1回の進路希望調査が行われた。12歳上の兄が通っていたこともあり、大垣北高校にあこがれていた。それまで、高校について考える機会がなく、現実を目にすることはなかった。しかし、「学年で20位以内には入りたいね。」「今のままだと厳しいね。」そんな現実をつきつけられる言葉をよく耳にするようになり、志望校を大垣北高校から、一時期下げていた。
中学3年生になり、本格的な高校選択が始まった。オンラインで行われた志門塾の高校ガイダンスで様々な情報を得た。その中で、「大垣北高校に合格した人の第1回岐阜模試の点数」を知ることができた。正確な点数は覚えていないが、私の第1回岐阜模試の点数、268点よりも低いことは覚えている。その情報が私の心を揺るがした。否定されると思っており、「大垣北高校を受験します。」ということは、校舎長にも親にも先生にもなかなか伝えられていなかった。しかしこの情報を得たことで自分のモチベーションになった。第2回岐阜模試。先程の情報で「なんとかなる」と思っていたのか、周りよりも勉強していなかった。だから点数も下がった。フロンティアードで、どれだけのライバルがいるのかが分かるようになり、より危機感を覚えた。「自分は中学1年生の内容をまったく理解していない。しかしライバル達は、しっかり基礎がつくられている。夏を制する者は受験を制す」これらのことから、夏で頑張ることを決めた。しかし、今思い返すと、友達とお祭りに行ったり、花火を見に行ったりと、本気で頑張れていなかったことに気がつく。夏の第3回岐阜模試では、322点。偏差値は1.4上げることができた。自分では良い方だと思っていた。しかし校舎で行われた先輩の第3回岐阜模試は、みんな350点以上ある。さらに周りの大垣北高校志望者も自分よりはるかに上の点数をとっていた。「やっぱり自分には無理なんだ。」そう思ってしまった。第4回岐阜模試では、301点で、偏差値は、47.7。もう10月にもなり、周りの子は部活を引退し、勉強一筋になっていた。自分は冬まで部活が続くこともあり「人一倍努力する」ことを決めた。この時期に、校舎長との面談があった。「第5回で偏差値53だった子が大垣北高校に合格した」「まだまだ伸びる」その言葉が自分を勇気づけてくれた。「絶対に偏差値50以上出して、C判定にのっかる」そう決めた。しかし、結果は311点で偏差値48.9だった。自分が恥ずかしくなった。周りの子は、C、B判定でも焦っている。「じゃあD判定の私はどうなるんだ。」と少しのイラ立ちもあった。しかし、先生や親が、私が大垣北を志望することに反対せず、前向きな言葉をかけてくれていたことを思い出し、志望校を大垣北高校に決定した。
12月まで部活があり、時間の使い方がとても上手になった。勉強の効率が上がった。ストレスが解消されやすくなった。部活があることに「不利」を感じていたが、ポジティブに考えるとたくさんいいことがあることに気がついた。そこからポジティブに考えることを大切にした。部活を引退し、正月特訓も終えた第6回岐阜模試では、ようやく偏差値50にいくことができた。まだまだC判定には遠いが「努力が実り始めてきた」ということを実感した。1月は、直前講習や実践演習が始まり、自分の実力が見えるようになった。その期間は、わくわくがあった。なぜなら、頑張った分だけ数字が大きくなるからだ。社会では、そのように、だんだん数字を大きくすることができた。この頃は、夜11時近くまで毎日自習室に行っていた。これも、後の心の余裕をつくることになる。第7回岐阜模試も350点ほどで、前回よりも伸びなかった。
2月中旬には、出願が始まりオーバー数が分かるようになった。60人という思いがけないオーバー数に、少しだけ悩まされた。しかし、この1年間の北高への思いを無駄にしたくないと思い、そのままにすることを決めた。この決断ができたのは校舎長の後押しがあったからこそだと思う。もちろん、自分の意思で決断することは大切だが、この後押しがなかったら、私は今、後悔していたと思う。もう出願変更ができない最後の模試であるプレテストでは、自己ベストである370点台を出すことができた。400点を目標にしてきたため満足はできなかったが、このテストでたくさんの課題を見つけることができ、「この課題を解消すれば合格に近づく」と思うと、やる気が出た。年度別問題集や満点演習で、自信をつけていくことができた。しかし、入試に近づくにつれ、その自信の半分は不安にかわってしまった。「この勉強をしている間に周りはもっと成長しているのではないか。この勉強は意味がないのではないだろうか。頭に入っている感じがしない。こんな問題が入試に出るのだろうか。」と。しかし、「この時期、知識に差はない」という校舎長の言葉で勇気づけられた。
そして入試当日、前日の出陣式で自信に満ちあふれた状態で臨むことができた。また、これまでの演習時間で、時間配分やポイントを意識してきたため、焦らず解くことができた。数学では手がふるえるほど緊張はしていたが、あせらず解くことができたため想像以上の点数を出すことができた。
みんなより一歩おくれて始まった受験勉強。第7回岐阜模試までずっとD判定だった。不安も自信も交互に表れていた。たくさんの受験体験記を見ても、みんなC判定以上を1回はとっているなど、自分の状況に似ている人は少なかった。あきらめそうになっている人に、ぜひ読んでほしい。
大垣北高校 合格
篠田 美伯
垂井校
不破中学校
「受験」を意識し始めたのはいつごろだっただろう。中学校に入学した時。先輩が卒業した時。中学3年生になった時。高校見学に行った時。進路を決定した時。私が受験を強く意識し始めたのは中3の夏期講習からだ。第1志望を大垣北高校にした後も、岐阜模試の結果は思うようにのびず、本当にこのままで良いのかという不安を抱えながら夏期講習が始まった。しかし、そんな不安はすぐにふきとんだ。中1から中3までの総復習。頭の中に知識をつめこみ、何度も基礎を反復することで応用につなげる。とにかく覚えることに必死で、悩む時間がなかった。勉強していると1日があっという間にすぎていく。なるほど、これが受験生なのかと実感した。同じ空間で学ぶ仲間も、休み時間を削って学習したり、塾へ行く電車の中で勉強したりしていた。そんな彼らの姿を見て、いつまでも不安な気持ちで足踏みしていられない、私も自分の志望校に向けて最善を尽くそうと思うようになった。その決意を元に夏期講習を終え、むかえた岐阜模試では100点近く点数が上がり、志望校判定もDからBへと上がった。この夏期講習で自分の受験生としての基盤ができたと思う。
しかし、それ以降の岐阜模試では納得のいく点数が出なかった。志望校判定はCまで下がってしまい、周りの仲間が着実に点数を上げていくのを見て、焦る気持ちが募るばかりだった。そんな調子でむかえた冬休み。大垣北高校へ行きたいという思いは変わらなかったが、両親や学校の先生からは、志望校の変更を勧められた。夏期講習で感じた手応えもあり、このまま大垣北高校へ向けてがんばりたいと思いつつ、この点数で本当にいけるのか、合格圏内の高校に変更した方が良いのではないかと考える自分もいた。そんな時、浅野先生との面談があった。そこで進路についての悩みを相談すると、先生はにっこりと笑ってこう答えてくれた。「まだ時間があるのに今からあきらめることを考えるなんてもったいない。しっかり前を向いて、挑むことを怖がらないで。」この言葉をきいて、はっとした。そうだ、もったいないのだ。志望校に向かってがんばってきたのに、挑戦する時間を放棄してしまうなんてあんまりだ。そう考えるようになってからは、苦手な科目、まちがえた問題に向きあい、毎日勉強を続けた。そうして少しずつ、自分の理解を深め苦手な問題やミスを減らしていくのは達成感があり、自分のやる気にもつながった。入試直前のプレテストでは400点を下まわってしまい、本番への不安が増した。しかし、今まで努力してきた時間、解いてきた問題、とりくんできた問題集など、積み重ねてきた物が勇気をくれた。
入試当日。終了の合図まで問題に向きあい続け、何度も見直しをした。人生で一番だと言えるくらい集中したと思う。試験を終えて、学校を出て、友人に声をかけられた時、ようやく肩の力がぬけて、私の受験が本当に終わった。合格発表の日までは、頭の片隅に不安を抱きながら生活していた。自分の力を出しきった受験だったと胸をはって言えるが、結果はどうだろう。祈るような思いで、合格発表の日をむかえた。結果は合格。自分の受検番号があった時は飛び上がって喜んだ。
私が受験を通して成長したのは自分を信じる心だ。自分の弱さは自分が一番良く知っている。だからこそ、自分のミスや実力不足を感じ、不安になることもある。しかし、受験では自分を信じる心も必要だ。今まで努力してきた自分を信じて、挑戦する心を見失わないことが大切だと思う。数えきれないほどたくさんの問題を、最高の仲間や先生と最高の環境で学んできたのだ。自分を信じる、自分を信じてくれる家族や仲間を信じることが、不安にまけず、挑戦していく中で重要なことだと学んだ。私の進路の選択を信じ、最後まで応援してくれた人達の思いに応えられるように、これからも努力を怠らず、多くの事に挑戦し続けたいと思う。この体験は私がこれから物事に挑戦する時に大きな勇気をくれるだろう。ありがとう。
大垣北高校 合格
伊藤 愛莉
安八校
東安中学校
私は、小学生の時から大垣北高校に通いたいと思っていた。小学生の時は大垣北高校に行きたいと思っていただけで、勉強は周りの人たちと同じようにしかしていなかった。
中学1年生になると部活が忙しく、勉強時間は少なかったが、部活がない日は塾に行って勉強していた。先生たちの授業は分かりやすくて、楽しかった。だから、私は塾が大好きで部活よりも塾に行きたいと思っていた。中学2年生になっても、部活がない日は塾に行って勉強を頑張った。誰よりも塾に来て勉強していたのに、定期テストは全然目標点数が取れなかった。
中学3年生の初めての講習である基礎講習は岐阜模試の順位でクラスや席が決まるということで、今まで以上に勉強した。そのおかげで、一番上のクラスで授業を受けることができた。私は最初の方の岐阜模試では、大垣北高校B判定を取っていて、「このまま勉強すれば受かる」と思っていた。みんなの部活が終わっていくと同時に、みんなが今までの私と同じように勉強をし始めてしまい、軽い気持ちで勉強していた私は簡単に抜かされてしまった。昔から直らない計算ミスや、分かっていたのにまちがえるというもったいないミスが多く目立つようになった。部活が終わってからは入試が終わるまで毎日塾に行った。どれだけ塾に行っても私の成績は良くならなかった。分野別問題集が配られてやらなければいけないことはたくさんあったが、塾はすごく楽しかった。
しかし、年が明けても私の成績は変わることなく、どんどん下がっていった。そこからは塾でよく泣くようになった。成績表が返される時「自分はこんなに頑張っているのになぜ成績が上がらないのか」と思い、すごく悔しかった。同時に塾が楽しいと思わなくなった。塾に行きたくなくてスマホをさわったり、勉強がしたくなくて先生と話したりした。1年の中で一番大切なテストと言われていた第7回岐阜模試では過去最低点を取ってしまった。そして、大垣北高校D判定を取った。たくさん泣いて、たくさん先生と話し合って、勉強方法を工夫した。この時、先生が助けてくれたから私は大垣北高校に合格できたと思う。私は帰りに校舎長の冨田先生と毎日「大垣北高校に合格する」と言っていた。また、プレテストまでは、「430点取る」と言って目標を口に出していた。プレテストでは今まで岐阜模試や定期テストで取ったことのない最高得点を取ることができた。今まで頑張ってきた努力が報われた感じがしてすごくうれしかった。この点数で気をゆるめることなく、たくさん勉強した。
私がここまで頑張れたのは小学校4年生の時から6年間教えてくれた冨田先生のおかげだと思う。テストの点数が良くても悪くても、これからどのように勉強すればよいか必死になって考えてくれた。休み時間にたくさん話してくれて楽しかった。どれだけ質問しても一つひとつ丁寧に教えてくれた。私が合格できたのはずっと近くで支えてくれた先生、毎日送迎をしてくれた家族、塾が楽しいと思えるくらい仲良くなった友達の存在があったからだと思う。その人たちに感謝したい。
私が受験生になって学んだことはたくさんある。一番大切なのは目標をしっかりもつこと。目標があればそれに向かって努力できる。だからこれからもこの1年のようにたくさん努力したい。
大垣東高校 合格
田中 梨湖
池田校
池田中学校
私が一番思い出に残っていることは、分野別問題集がなかなか終わらなかったことです。私は問題を解くのが遅く、自習室にたくさん来ても解き終わるのに時間がかかりました。でも、高橋先生と末松先生が、私が分野別を年内にやり切った時に「よくやった」や「丁寧にやることが大切」「分からないことはまた一緒にやろう」などと私の頑張りを認め、褒めてくださったことで、先生や親のために頑張ろうと思うことができました。また、年賀状でも手書きでコメントしてくださって、とても嬉しかったです。
受験を通して、勉強をする習慣をつけることがとても大切だと気付きました。朝から夕方まで授業、夜から自習室に来て勉強というルーティンがついたことで、学校に行くような感覚で自然と自習室に来て勉強することができました。やっぱり家で一人で勉強するのは辛いです。自習室に来て、仲間がたくさん勉強しているのを見て、自分も頑張ることができました。自習室で勉強しても集中できない時は、ラウンジの机でみんなと勉強して、リフレッシュしながら勉強したり、たくさん先生とお話しながら分からない所を教えてもらったりしたことが、受験間近の心の支えでした。
岐阜模試や実力テストで全然点数がとれなくて辛かったけど、「りこさんならいける」と高橋先生が背中を押してくださったおかげで、くじけず、いつも通り入試を受けることができました。入試の自己採点後、点数を聞いて「よく頑張ったな。お疲れ様」と言ってくださった高橋先生、「りこさん、頑張ったね」と私の肩を揺らしながら喜んでくれた末松先生のおかげで、受験を頑張って良かったなと強く思えました。
これからはそんな心強い先生達無しで勉強を頑張らないといけないことが悲しいですが、仲間や新しい先生と共に頑張ろうと思います。私は、勉強をたくさんしなければいけないことより、テストで悪い点をとってしまう方が嫌なので、くじけず、自分なりにこつこつ頑張っていきたいです。高橋先生と末松先生のおかげで、「自分は問題を解くのが遅くてだめだ」とネガティブになっていたけど、「こつこつ丁寧にやれている」というポジティブな考え方ができました。私の苦手な単元や問題に合わせてプリントを作ってくださって、とても感謝しています。苦手な所、間違った所をまとめたノートを作るように教えてくださってありがとうございました。自分の自信につなげることができました。
私は、2年生の最後に志門塾に入り、1年ちょっと志門塾でお世話になりました。今までにないほど充実した1年でした。辛かったけど、とても思い出に残る日々でした。
彦根東高校 合格
川口 晃佑
彦根校
彦根中央中学校
僕が本格的に勉強するようになったきっかけは主に2つある。一つ目には同じ志門塾彦根校に通っていた仲間が朝からお弁当を持って自習室に行っていることを知ったことで、自分もやらなくてはいけないと感じたことである。そしてもう一つ、僕はゴルフをしていて、小学校2年生の時から勉強とゴルフの両立を目指してきたことである。中3の夏休みに全国決勝の舞台をかけた最後の試合があったので、これまでにないくらい勉強とゴルフに熱心に取り組んでいた。最後のゴルフの試合では、あと少しのところで敗れ、本当に悔しい思いをした。この悔しさをバネにして、夏休み明けくらいには毎日のように、塾が家なのかと思うくらい自習室に足を運んで、二度と「あと少し」という悔しい思いにならないよう勉強した。
とはいえ、受験当日までの道のりは決して順風満帆ではなかった。特に、11月は苦しかった。模試で結果が出なかったのはもちろんあるが、ただそれ以上に苦しかったのは、なかなか努力が結果にあらわれず、1日10時間近くしている勉強が本当に意味のあることなのか?と思うようになったことだ。まるで自分に自信が持てず、周りが成長していく中、自分だけが足踏みをしているような気持ちになった。また、自分の弱さの一つに、120%頑張れる日はあっても、頑張ろうと思っても30%くらいしか頑張れない日もあったことだ。今思えば、「自ら逆境を作り出してしまっていた」んだと思う。僕がそういった逆境を乗り越えられたきっかけは、ゴルフで鍛えた「心は熱く、頭は冷静に」という心構えができていたことだと思う。自分の目標のために心を燃やしつつも、そのためには「今、何をすべきなのか」ということを頭で冷静に考えられていたということだ。
「考える」ということについて、僕は特に「自分」について考えることが多かった。もちろん周囲と比較することはあっても、心の根底には必ず自分を置いていた。自分の強みと弱さは何かということをしっかり認めた上で、自分にとって本当に必要なことを考える。今、思い返せば、僕はこの行動を自然にできるようになっていた。塾帰りの自転車をこいでいる時、風呂に入っている時、テストの結果を知った時などは、自己を考えるために重要かつ最適なタイミングだったのだと思う。
1月、入試が近づいてきていた頃のことを思い出すと、少し後悔していることがある。塾の模試や学校の実力テストでも結果はよかったのだが、もちろん全ての結果がよかったわけでもなくて、数学で前に解けたはずの問題が解けなくなっていたり、得意としている英語で点数をとれなかったりしたことがあった。その時に、その結果を引きずることが多かったのである。そのため、悪い結果が出た時に、「まだまだ伸びしろがある」と思えず、向上意欲をなくしてしまったり、良い結果に満足して終わってしまうことが多くなっていた。残りの貴重な1か月、1週間を自分の成長のために使えなかった時があったことは、反省点だと思う。
僕は私立受験前日も、特色選抜前日も熱を出してしまった。このとき本当に不思議だったのが、熱が出たことにそこまで焦らず、まるで当然のことのように感じていたことだ。「ここでもまた逆境を作ってしまったか」と認めていた自分がいたし、絶対に受かりたいという気持ちは強かったから諦めることはなかった。試験が終わってからはほとんど実感や達成感がなかった。だから、合格発表までの間は、落ちるという前提で、常に次のことを考えるよう心掛けていた。
僕はリスクを伴いながらの受験となったので、不安というより、何か落ち着かない気持ちになることが多かった。そんな中で僕の気持ちを切り替えさせてくれた父の言葉には感謝している。
「何事にもリスクは当然つきまとう。でもリスクを併せ持つことは決して悪いことではなく、むしろ良いことだ。リスクがあるからこそ頑張れるんやって」
この言葉のおかげで恐れを捨てて頑張れたので、今は自信を持って「リスクを併せ持ったからこそ、不安になりすぎず、入試で自分の力を出しきれた」と言える。このような父の言葉、そして、無理な要望も聞き入れてくれた母、どんな時も見守ってくれた両親には、一つの大きな区切りがついたことへの感謝でいっぱいだ。そして、次の新たな一歩をしっかりと踏み出したい。